
中国の南京大学(Nanjing University, NJU)で行われた最新の研究によって、運動トレーニングを積んだオスのマウスの子どもが、父親と同様に優れた持久力や代謝能力を示すことが明らかになりました。
これまではDNAに刻まれた情報が主に親から子へ伝わると考えられてきました。
しかし新たな研究では父親が運動した「経験」が精子にある特定の小さなRNAに書き込まれ、それが次の世代の持久力、握力、回復力などを強化することが示されています。
遺伝の常識を揺さぶるこの新発見は、親が行った運動や努力の成果が子どもの体にまで影響を与える可能性を示しています。果たして、この仕組みは人間にも当てはまるのでしょうか?
研究内容の詳細は2025年11月4日に『Cell Metabolism』にて発表されました。
目次
- 努力の成果が遺伝する可能性が出てきた
- 運動訓練の成果は遺伝する――父マウスの努力が子に伝わった理由
- 未来の健康法は『父親の運動』?
努力の成果が遺伝する可能性が出てきた

「運動が好きな親から生まれた子どもは、やはり運動が得意なのでしょうか?」
そんな疑問を一度は考えたことがあるかもしれません。
普通に考えれば、親がどれほど筋トレやランニングを頑張ったとしても、その「努力そのもの」が子どもに引き継がれることはなさそうです。
親の運動経験や練習量が子の体に直接反映されるわけではありません。
遺伝する要素といえば、せいぜい筋肉がつきやすいかどうかを決める遺伝子の性質(いわゆる体質)くらいで、親がどれだけ頑張ったかは関係ない――と考えるのが一般的です。
ところが最近、この「常識」に疑問を投げかける研究が増えています。
それが「エピジェネティクス(後成遺伝)」という仕組みの研究です。
エピジェネティクスとは、遺伝子(DNA)の塩基配列そのものを変えるのではなく、遺伝子の働き方(オンとオフ)を変えることで、身体や行動の特徴を次の世代に伝える仕組みのことです。
例えば、母親が妊娠前や妊娠中にしっかり運動すると、生まれてくる子どもの代謝機能(エネルギーを作る仕組み)や認知機能(脳の働き)、運動能力が高まることが複数の研究で報告されています。
つまり、母親の生活習慣がエピジェネティクスを介して子に伝わる可能性が、徐々に認められてきているのです。
では、父親の場合はどうでしょうか。
父親は妊娠も出産もしないため、子への影響はないように感じられますよね。
しかし実は最近、父親の生活習慣が次の世代に影響を与える可能性があることが、注目を集めています。
その秘密は、精子が運ぶのはDNAだけではない、という点にあります。
一般的に遺伝といえば、親から子へDNA(遺伝子の設計図)が受け渡されることを指します。
ですが精子にはDNA以外にも、「小さなRNA(細胞の働きを調節する短いRNA分子)」が含まれているのです。
こうした小さなRNAは、父親がどんな環境で暮らしたか、どんな経験をしたかに応じて、精子の中で変化します。
つまり、父親の生活習慣や環境による情報が、小さなRNAという「メッセージ」に形を変えて精子に書き込まれる可能性があるということです。
受精(精子が卵子に入ること)の際にこの小さなRNAが卵子に運び込まれると、卵子が胚(赤ちゃんの最初の姿)へと成長する段階で、遺伝子の働き方を少しずつ変える作用があると考えられています。
その結果、生まれてくる子の体質や行動が長期的に変化することが報告として増えています。
言い換えると、精子中のRNAは「父親のライフスタイルについてのメモ書き」のような役割を果たし、DNAとは違う新しい情報の運び手(ベクター)として注目されています。
DNA以外で、親から子へと遺伝が伝わるという視点は、これまで広く認められてこなかったものの、近年注目されています。
しかし、これまでの研究で明らかになったのは、食事やストレスといった「生活習慣の一部」が遺伝しうるということまででした。
親が努力した「運動の成果」まで、父親から子に遺伝するのかどうか、特に「持久力(長く運動を続ける力)」のような能力が伝えられるのか、さらにその詳しい仕組みがどのようになっているのかまでは分かっていませんでした。
そこで今回の研究チームは、マウスを使って「運動トレーニングという親の努力」が実際に遺伝するのか、もしそうならどんな仕組みで子に伝わるのかを明らかにすることに挑みました。
父親の運動は、果たして子どもの身体にまで影響を及ぼすのでしょうか?
運動訓練の成果は遺伝する――父マウスの努力が子に伝わった理由

「父が走ると子も走れるようになる」――そんな話を聞けば、多くの人は都市伝説だと思うでしょう。
けれどマウスの実験では、まさにそれが現実になりました。
研究チームはまず、オスのマウスを2組に分けました。
片方のグループには毎日トレッドミル(ランニングマシン)で走る“トレーニング生活”を、もう片方には走らない“のんびり生活”を送らせました。
どちらのグループも同じ食事と環境で育て、違うのは「走ったかどうか」だけです。
しばらくして、両方のグループのオスを普通のメスと交配させ、そこから生まれた子(F1世代)を観察しました。
子マウス自身には特別な運動は一切させず、父親の影響だけが出るようにしたのです。
そして結果を見て研究者たちは驚きました。
運動していた父から生まれた子は、運動していなかった父の子に比べて、明らかに引き締まった体つきでした。
体を測ると筋肉の重さが多く、脂肪が少なく、骨の密度まで高い――まさに「生まれつき鍛えたような体」だったのです。
持久力のテストではその差がさらに明確になりました。
運動した父の子は、走る時間も距離もずっと長く、途中でバテにくい。
さらに“握力テスト”にあたる逆さ掴まり試験では、ぶら下がったままの時間が長く、運動後の血中乳酸(疲労の目安)も低下していました。
走り切ってもまだ余力が残っている――そんな姿はまるで、トレーニングを積んだアスリートのようです。
さらに驚くのは、この違いが「一度の遺伝子変異」では説明できないことです。
父親のDNAそのものは変わっていません。
にもかかわらず、子どもたちの体は確かに違っていたのです。
では、どうして「父が走った」という情報が、DNAを変えることなく子どもの体に伝わったのでしょうか。
研究者たちはまず、精子の中にその答えがあると考えました。
精子はDNAを運ぶのが主な役割ですが、それだけではありません。
小さなRNA(マイクロRNA)という特殊な分子も精子に入っています。
この小さなRNAは遺伝子そのものではなく、遺伝子が働くのを調節する役割を持つ、いわば遺伝子の「監督役」のようなものです。
実はこの小さなRNAは、精子がつくられるときに父親の経験や生活習慣によって変化することがわかってきています。
つまり、父親が運動すると、その情報が「マイクロRNAの変化」という形で精子に書き込まれることがマウスで確かめられました。
そこで研究チームは、父マウスの精子からこのマイクロRNAを取り出し、それを別の受精卵に直接注入しました。
受精卵はそのまま代理の母マウスに戻され、生まれた子は通常通り育てられました。
父親も母親も運動経験はないのに、「父親が運動した」という情報が精子から取り出されたRNAを通じて人工的に子に伝えられたのです。
そして驚くべきことに、この方法で生まれた子どもたちは、運動父の子どもとほぼ同じような持久力や代謝の良さを示しました。
まるで精子から受け継いだ「父の運動メモ」が、体を強化する指令を子どもの細胞に伝えていたようでした。
さらに、研究チームはこのRNAが具体的にどんな指令を細胞に与えたのかを詳しく調べました。
すると重要なことが見えてきました。
注目されたのは、精子から運ばれた特定のマイクロRNAが、受精後の胚(赤ちゃんの元になる細胞の集まり)の中で「NCoR1(エヌコアワン)」というタンパク質をつくる遺伝子を抑えていたことです。
このNCoR1というタンパク質は、細胞の中でエネルギーを作るミトコンドリア(細胞の「発電所」)の数を増やしたり、酸素を効率よく使ったりするための司令塔として知られる「PGC-1α(ピー・ジー・シー・ワンアルファ)」というタンパク質の働きを抑えるブレーキのような役割をしています。
つまり、このNCoR1が多いと細胞はエネルギー作りを抑えめにしますが、少なければPGC-1αが活発に働いてエネルギー作りが盛んになるのです。
今回、運動した父マウスの精子がもたらした小さなRNAは、この「NCoR1」というブレーキ役のタンパク質を胚の段階から弱めていたことがわかりました。
その結果、子どもの体ではミトコンドリアが増え、エネルギー作りが活発になり、持久力が高くなるように「設定」が調整されたのです。
さらに研究チームは決定的な実験を行いました。
実際に、父親が運動したことで精子で増えていた小さなRNA(特にmiR-148a-3pというもの)を人工的に作り出し、それを別の受精卵に直接注入して子どもを生ませるという実験をしました。
すると、この小さなRNAを注入された子マウスもまた、まるで運動した父から生まれたかのように持久力が高く、筋肉中のミトコンドリアの数も多くなりました。
こうして、父親の運動経験がDNAではなく精子の小さなRNAという別の経路を通じて子どもに伝わり、子どもの体質を変えることが可能であることがマウスで初めて明確に示されたのです。

