このとんでもない怪物を一国の最高指導者にまで上り詰めさせたのは、謀略と恫喝だった――。
グルジア地方の貧しい靴職人の三男として生まれたヨシフ・スターリンが、マルクス主義を唱える革命運動に参加したのは15歳の頃だった。するとあろうことか、銀行強盗や現金輸送車襲撃などで、活動資金を調達。8回逮捕されるも、うち7回は脱獄する。その恐るべき実行力により、組織の中で頭角を現すことになった。
1917年、ロシア革命により帝政ロシアが崩壊すると、レーニン率いる共産党が権力を掌握。ソビエト連邦共和国が成立したが、2年後にレーニンが死去する。党内が混乱する中、各党員らの弱みを握るため盗聴器を仕掛けるなどして恫喝と謀略の限りを尽くし、最高指導者の座を射止めたが、スターリンだったのである。
この男の本領発揮は、まさにここからだった。権力を掌握したスターリンは「社会主義に有害な行為はすべて犯罪」だとして、「粛清」の名のもとで大量虐殺を開始。対象は老若男女すべての国民に及び、通説ではソ連国内での処刑者は1000万人とも2000万人とも伝えられる。
そんなスターリンが行った恐怖の経済政策が「5カ年計画」だった。これはソ連の工業国化を目指し、強制収容した囚人たちを死ぬまで働かせる、といったものだ。収監された人々はろくに食事を与えられず、その多くが餓死、あるいは凍死した。農村部では家畜や農機具をすべて取り上げたことで、極度の飢えにあえぐ農民たちが、人肉を食用として売買していたことが明らかになっている。
この悪魔のような政策により、ソ連の貴金属所有量や軍事産業は急成長。工業基盤が築かれることになった。スターリンは第二次大戦中も、強制労働や無理な領土拡大、略奪を行い、二十数年にわたり独裁者として、ソ連の暗黒時代の長として、君臨してきたのである。
そんな男のスローガンはズバリ、「一人の人間の死は悲劇だが、数百万の人間の死は統計上の数字でしかない」。ところが、あまりにも多くの人々を殺してきたせいか、晩年は連日にように悪夢にうなされ、極度の被害妄想に陥り、要塞に引きこもった。そしてそのまま1953年に、脳卒中で絶命している。享年74。
レーニンの遺書には「スターリンだけは後継者にしてはいけない」と書き残されていたというが、独裁者となったスターリンが引き起こすであろう、地獄の沙汰が見えていたのかもしれない。
(山川敦司)

