痛みなく髪を生やす方法は可能か?

今回の研究では、「傷がある場所でなぜか毛が濃く生える」という昔からの不思議な現象について、その謎を詳しく調べることで「炎症→脂肪細胞→毛根」という新しいメカニズムが明らかになりました。
特に注目すべきなのは、皮膚が傷ついたときに起きる炎症そのものではなく、炎症が脂肪細胞の変化を引き起こし、その結果として毛根の幹細胞を目覚めさせているという仕組みです。
これまでは、炎症をわざわざ起こして発毛を促す治療法もありましたが、やはり痛みや赤みなどの副作用がネックでした。
今回の発見は、こうした炎症の「デメリット」の部分を避け、その「メリット」だけをうまく取り出せる可能性を示しました。
もっと具体的に言うと、炎症で引き起こされる脂肪分解が毛根幹細胞にエネルギーを供給し、新しい毛を作り出すのを促すことがわかったのです。
さらに興味深いことに、この発見を応用した実験は驚くほどシンプルでした。
マウスの皮膚に、「オレイン酸」のような特定の油(一価不飽和脂肪酸)を塗るだけで、皮膚炎を起こさずに発毛が促進されることが確認されました。
つまり、炎症による発毛促進という複雑な仕組みを、その最終的な成果物である脂肪酸を利用することで安全に再現できたというわけです。
研究者たちは、この発見を人間にも応用できないかと考えています。
実際に彼らは、オレイン酸などの脂肪酸を配合した外用剤を作ることで、人間の頭皮でも毛を安全に伸ばす方法が実現できる可能性を探っています。
もしこれが成功すれば、従来のような刺激性のある薬を塗る方法と比べて、副作用や不快感がずっと少ない新しいタイプの育毛剤や美容液が開発できるかもしれません。
もちろん、現段階ではあくまでもマウスの皮膚で確認された効果です。
人間の毛髪はマウスの毛髪と性質や成長周期が大きく異なるため、この「脂肪酸だけで毛が生える」という新戦略が、ヒトでも同様に成功するかどうかはまだ未知数です。
研究チーム自身も、「ヒトへの応用は次の大きな課題」と慎重な姿勢を示しています。
ただし、ヒトの毛根細胞を実験室で培養して調べた予備実験では、脂肪酸がヒトの毛根細胞にもよい影響を与える可能性が示唆されています。
さらに、この研究を通じて明らかになった新しいメカニズム、つまりマクロファージが脂肪細胞に送る「SAA3」という合図や、脂肪酸を取り込んだ毛根幹細胞が活性化する「Pgc1-α」という経路などは、将来的な育毛薬の開発に役立つ新たなヒントを与えてくれます。
研究チームは、こうした成果を踏まえて特許を出願し、臨床応用を視野に入れています。
論文とその付録には詳しい実験データがまとめられていて、世界中の研究者たちがこの成果をベースにさらなる研究を進めることができるようになっています。
今回の研究は、炎症という諸刃の剣の中から、その「メリット」の部分だけをうまく引き出すという、ユニークで実用的なアイデアを提示しました。
これは、将来的に安全で副作用の少ない育毛法を開発するための、大きな一歩になるかもしれません。
元論文
Adipocyte lipolysis activates epithelial stem cells for hair regeneration through fatty acid metabolic signaling
https://doi.org/10.1016/j.cmet.2025.09.012
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部

