この瞬間、俺だけのステージ

百瀬純平といえば、ナショナルデモンストレーターを務めるほどの基礎スキーヤーでありながら、パウダー派であることも知られている。
「技術選予選に初めて出たのが23歳のとき。でも基礎スキーは正直、僕まったく興味なかったんですよ(笑)。パウダー大好きだったし、フリーライドのほうにいきたかったですが、当時は僕の周りの環境ではフリーライドとかフリースタイルとかのジャンルがあまりなくて、アルペンか基礎かみたいな感じだったんですよね。
技術選も最初の3年間は北海道予選を抜け出せなくて、なかなか本選まで届かなかったですね。やっと25歳から出られるようになったっけ」
もともと全然興味のなかった基礎スキー、さらに思うような結果が何年も出ないなか、どうして百瀬純平は技術選を目指し続けたのだろう。
「ゲレンデを滑ってると、人がいっぱいいるじゃないですか。でも、大会ゼッケンをつけてコースを滑っているときは、自分一人なんですよ。そこでどんな滑りをしてもいい。ここは今の瞬間、俺だけのステージだ、みたいな感じがして、めちゃめちゃ気持ちいい。だから、僕のなかでは技術選は大会というよりも、お祭りといった捉え方でした。

27、28歳くらいの頃、北海道のテレマーカーで藤川健さん、当時一緒にさっぽろばんけいスキー場でインストラクターをやっていたんですけど、「ちょっと山行ってみない?」って誘われてバックカントリーに行くようになったんです。そこでも、自然のなかの大斜面を一人で滑るわけですよね。これも大会コースを自分だけで滑るのと同じで、誰も滑ってない、この時間この場所を占領できる! みたいな感覚がすごく楽しかったですね」

技術選に出るようになり、意識が徐々に変わっていったという。
「最初は、ただ出ることに意義があるというか、技術選の目標は出場することで、そこで友達に会って楽しくやりたいな、みたいなところだったんです。そこから31歳でナショナルデモンストレーターになって、そのタイミングでキロロのスクールに入ったっていう経緯もあって、スキーの指導をしっかりやりたいなと思うようになった。その頃から夏場も冬場も通して、オールシーズンでスキーで飯を食っていきたいっていうのが夢になってきたんです」
自分が残せたもの
昨シーズンで選手としてのビブを脱いだが、その引退を惜しんだ者は数多い。百瀬純平は同世代の仲間や若手選手たち、周りからとても愛され、リスペクトされた選手だった。最後の第62回技術選では、その有終の美を飾る引退セレモニーが行われ、百瀬は大きく空に舞った。

コンペシーンを去ったいま、振り返ってみると、どんなことを思っているのだろう。
「僕はトップアスリートでやっていたというよりも、どちらかというとシーンの盛り上げ役、そんな存在だったと思います(笑)。技術戦でトップ10に入ったこともないし、高成績を収めたわけでもないんです。でも、技術戦を堅苦しい競技会から、もっとフランクな、ちょっとフリーライドに近いような自由な感覚の表現のステージにどんどん変えていった、というのは、僕の気持ちのなかではすごくあります。技術選をそんな場にしたかったんです」
具体的にはどういったことを?
「普段みんなはゴールして、普通に止まるところを、わざと光の当たってるところでバーッと大きなスプレーを上げて止まるとか。スタート前は、ギャラリーに向かって手を上げて『盛り上がれっ!盛り上がれっ!』みたいなアクションをして、盛り上げ頼むよ!的なアピールしてからスタートを切るとか(笑)。コブを滑るときも、わざとスプレーを上げにいったりとか。
それまでは、技術選は検定の延長の競技会みたいな硬い雰囲気があったんですよ。そういう枠組みを僕なりにぶち壊して、自分はフリーな味付けをしていった。僕は技術的なうまさっていうよりも、純粋に見た目のかっこよさを求めてたから(笑)。とにかく、かっこよさを表現したかった」

すると、逆にうまさを求めて、キチっと精密な滑りをする選手に対しては、枠にはまり過ぎていてつまらない、といった思いもあったのだろうか?
「内心かなりありました(笑)。でも、そもそもそういう大会だから、もちろんそういう選手たちに対してはマイナスなことは言わないけど、『もっと肩の力抜いて楽しくやろうぜ、年に1回のお祭りなんだから!』みたいなことは、よく自分の中では言ってましたね(笑)。それをわかりやすく表現するために、頭にライン入れて、バリカンでラインバー入れて滑ったり、唇に真白いリップを塗って滑ったりもした。いろいろ無茶しましたが(笑)、エンターテイメントを演出することで、こんなメッセージを伝えられたらなぁって。
でも、いま後輩たちが本当に大会を楽しんでいて、カッコつけている姿を見たりすると、『ああ、残せたのかな』っていう感じはありますよね」
百瀬純平は技術選にエンターテイメント性をもたらしたエポックメーカーであり、希少なムードメーカー、誰よりも技術選を楽しんでいた選手だったに違いない。
