戦時中、極限状態のジャングルを生き抜き、のちに昭和天皇をパチンコで撃った元日本兵――奥崎謙三の破天荒な言動を追った『ゆきゆきて、神軍』は、今なお日本のドキュメンタリー映画の最高傑作と名高い。同作のメガホンをとった映画監督の原一男と、元刑務官で作家の坂本敏夫が、再び奥崎を語り尽くした。
昭和天皇をパチンコ玉で撃った男
『ゆきゆきて、神軍』(今村昌平企画、原一男監督)は、1987年に公開されたドキュメンタリー映画。太平洋戦争の飢餓地獄、ニューギニア戦線で生き残り、自らを人間の作った法と刑を恐れずに行動する「神軍平等兵」と称して、慰霊と戦争責任の追及を続けた奥崎謙三の破天荒な言動を追う名作だ。
奥崎は第二次大戦中、日本軍の独立工兵隊第36連隊の一兵士として、激戦地ニューギニアへ派遣されていた。ジャングルの極限状態で生き残ったのは、同部隊約1300人中、わずか100名ほど。
その後は1956年、店舗の賃貸借をめぐる金銭トラブルから悪徳不動産業者を刺殺し、傷害致死罪で懲役10年。1969年、皇居の一般参賀で昭和天皇にパチンコ玉を発射し、懲役1年6か月。
1972年、ポルノ写真に天皇一家の顔写真をコラージュしたビラを約3,000枚をまき、懲役1年2か月。1981年、田中角栄殺人予備罪で逮捕、不起訴。1987年、殺人未遂等で懲役12年の判決……と、一貫して天皇の戦争責任を訴え、2005年に亡くなるまで希代のアナーキストとして活動した。
––––今年は今年は戦後80年でもあり、奥崎謙三氏について直接本人を知る原一男さんと坂本敏夫さんにその人物をあらためて語ってもらうことで戦後の検証に近づけようと思います。
坂本さんは、奥崎さんが不動産商業者傷害致死事件で大阪刑務所に初犯で入っていたときに刑務官として、原さんはその後、奥崎さんが「皇居一般参賀でのパチンコ発射事件(1969年)」、「銀座・渋谷・新宿などでの皇室ポルノビラ配布事件(1976年)」を起こして前科三犯となり、出所後にその過激な活動をドキュメンタリー監督として追うことで、それぞれに濃密な接点があったわけです。
以前も聞きましたが、そもそも坂本さんが刑務官になるきっかけというのも奥崎さんであったということでしたね。
坂本 父は戦時中、出征先の沖縄戦で重傷を負い、終戦後米軍の野戦病院に6ヵ月入院、昭和21年3月に退院し復員。母が身を寄せていた熊本の実家に帰り、熊本病院に5ヵ月余り再入院の後、退院し熊本刑務所の刑務官として採用されました。当時の刑務所長に将来を嘱望された父は幹部の道を進みます。
10年弱の現場経験を経て、法務省矯正局に異動し、1963年12月暴力団抗争(所謂「仁義なき戦い」と言われている抗争)の余波を受けて、規律秩序が紊乱した広島拘置所の立て直しという法務大臣の特命により所長として赴任します。
広島拘置所を立て直した父は1966年4月、日本一の特大施設・大阪刑務所の管理部長として赴任しました。管理部長というポストは受刑者処遇と刑務作業を統括するナンバー2ポストです。
ちょうどその年は、監獄法に関する省令が革命的に改正され、受刑者の人権が大幅に保障されました。受刑者の人権意識の高まりによって受刑者からの所長面接願いが多数提出されていました。父は大阪刑務所でも指折りの処遇困難者(クレーマーなど)の面接を一手に引き受けました。
そのうちの一人が奥崎さんだったのです。面接時間は通常の数倍、回数も複数回だったと、私が刑務官になってから関係職員にききました。
おそらく、奥崎さんからは彼の体験した驚愕する戦争体験を聴き、父も筆舌に尽くしがたい、生きるために封印していた沖縄での悲惨な体験を思い出したのでしょう。今でいうPTSDが発症してしまうんです。それで心を病んで入院するのですが、6階の病室から飛び降りて自死してしまう。
その後、父の同僚に東京の大学生だった私が呼び戻されて、私が父の後を継いで刑務官になれば、官舎にいるお前の母や弟もそのままでいられるというので、私は刑務官試験を受けて合格したわけです。
職務に就いて驚いたんですが、奥崎が刑務官で唯一話ができるのは私の親父だったと言っていたそうなんです。
ある日、奥崎さんが独居生活で世話になったという刑務官Aさんを訪ねてきました。そのAさんが、私の官舎にやって来て、「奥崎謙三があんたに会いたがっている。管理部長の息子が刑務官になったと聞いて、どうしても会いたいと会いに来た」というのです。
それで私がAさんの官舎に行くと、奥崎さんは満面の笑みで私を迎えてくれました。
奥崎謙三の影響力
原 お父さんが沖縄に派兵されたのはいつごろですか?
坂本 1944年4月2日です。父は1941年3月早稲田大学を卒業し翌年2月に招集があり輜重兵として第37連隊に入隊を命ぜられました。門司港から釜山港に渡り山西省に展開していた部隊に着隊、以後幹部候補生として教育に臨み43年4月原隊に曹長として復帰しました。
12月少尉に昇進。44年3月独立歩兵第14大隊に転属し上海を出港しました。着いたのは沖縄県那覇港。ここで、沖縄戦守備隊の先遣隊員として上陸したことを知ります。
以後、7月から9月にかけて大量動員される沖縄守備隊本隊【沖縄本島(第九師団、二四師団、第六二師団)、宮古島(第二八師団、独立混成六〇旅団、同五九旅団)、石垣島(独立混成第四五旅団)、大東島(歩兵第三六連隊)】の受け入れ準備に奔走しました。
開戦後は本隊に所属し一般住民と共に最後の激戦地となる摩文仁の丘まで追い詰められ、そこで敵弾に倒れ重傷を負いました。復員したのは46年3月です。したがって父は住民を巻き込んだ沖縄戦の悲劇全てを目に焼き付けていたのです」
原 沖縄で米軍上陸を迎え撃って、摩文仁の丘での戦いをされたということですから、本当に厳しい戦争体験をされたんでしょうね。
奥崎さんもニューギニアのジャングルの中で泥にまみれ、飢餓や銃撃とも戦ってきたわけですから、お互い感じ合うものが多かったんでしょうね。お父さんが奥崎さんと出逢ってから亡くなるまでの時間はどれぐらいあるんですか?
坂本 1966年4月1日、父は大阪刑務所の管理部長として赴任しました。着任早々は受刑者と面接する時間はありません。余裕ができるのは早くても3ヵ月後ですね。
したがって面接したのは6月中旬だと思います。母の話では6月半ばから不眠が続いていたとのことです。大阪労災病院に入院したのは7月に入ってすぐでした。死亡(自死)したのは8月10日ですから2ヵ月弱です」
原 自死された原因はそれだけではなかったかもしれませんが、ニューギニアと沖縄、お互いの戦争についての話をされる中で、奥崎さんが発した言葉からかなり大きなインパクトを受けたということでしょうか。
立場は受刑者と刑務官でありながら、部下を死なせてしまったという思いを封印していた元軍人に対して大きな影響力を持っていたのは事実ですね。お父さんと奥崎さんは天皇についても話し合われていたんでしょうか。
坂本 父は法務本省で11年余り要職についた経験があります。当時、上司から中央官庁につとめる役人は保守政党の支持でなければ問題だ! と言われたそうですが、父の社会党支持は揺るぎませんでした。
悲惨な戦争体験があったから野党への思いが強かったのだと思います。奥崎さんと昭和天皇の話し合いをしたかというご質問ですが、父は天皇制に対する意見を述べたのではないかと思います。
ただ、ニューギニアと沖縄戦の体験談は盛り上がったのでしょう。第3区事務所内の調査室での面接は一般的には、せいぜい30分のところ父との面接は4時間にも及んだというのですから、波長がぴったり合ったのだと思います。
原 奥崎さんには、ひとつの行動パターンがあってね。自分のことを認めてくれる人、自分のことを評価してくれる人にはその人のことも評価してすごく丁重に付き合うんです。それは一貫してそうだった。
だから刑務官の中にもいろんな人がいるんでしょうけども、きっとお父さんとは、認め合われたんでしょうね。

