「中身より見た目」という逆転現象
「外形的公正性」とは、本来、誰に対しても等しく適用されるべき普遍的な基準である。それを、自らの都合の良い時だけ持ち出し、気に入らない相手を攻撃する道具とするのであれば、まさに「外形の不公正」そのものである。
このような運用の裏には、橋下氏自身の政治的影響力の維持や、党内における自身の路線への求心力確保という思惑が透けて見えてしまう。
これらは、一見、清廉な政治を求める理想のように見える。しかし、その過度な強調は、民主主義社会において極めて危険な弊害をもたらす。
第一に、形式主義に陥る危険性である。外形的な見た目ばかりを重視すれば、政治家は中身が腐っていても、体裁だけを整えれば良いという思考に陥る。
これは、「中身より見た目」という逆転現象を招き、実質的な政策論議や社会貢献が軽視される風潮を生む。国民の目をごまかすためのパフォーマンスが横行し、政治の本質が空洞化するのだ。
藤田氏のケースも、「法的に問題ない」にもかかわらず「外形が悪い」と断罪されることで、実質的な貢献の有無よりも、形式的な「疑わしさ」が優先されてしまう。
次に、そして最も問題なのは、恣意的な適用である。橋下氏の事例が示すように、この概念は批判する相手にだけ厳しく、自らの側や身内には甘く適用される傾向がある。これは、公正の名のもとに不公正が行われる、という欺瞞に他ならない。
副首都構想なる、莫大な税金が必要なプロジェクトを吉村氏はぶち上げた。しかし、副首都構想という防災目的の政策を無理やり都構想(これも必要性が疑われている)に結びつけることこそ、外形的公正性を欠くのではないか。
大阪は南海トラフ地震での被災が予測されている。公平な基準に見せかけて、実際には政敵を攻撃し、自己の政治的立場を強化する道具として使われるのであれば、このような「都合のいい正義」は、国民の政治への信頼を根底から揺るがす。民主主義社会において許されるものではない。
維新が批判してきた「ザ・自民党」と変わらない
本来、「外形的公正性」は「説明責任」とセットで語られるべき概念である。「疑われるような見た目」があったとしても、それに対して透明性のある説明を尽くすことで、国民の理解と信頼を得るのが民主主義の健全な姿だ。
疑惑を発生させないこと以上に、発生した疑惑に対し、誠実に説明責任を果たすことの方が、政治の信頼を維持するためにははるかに重要である。疑念を払拭する努力を怠り、「見た目が悪いからダメ」の一言で思考停止を求める態度は、説明責任の放棄であり、民主主義の精神に反する。
藤田文武氏は、たとえ法的には潔白であったとしても、公金還流疑惑によって国民の疑念を招いた点で、政治的説明責任を十分に果たしたとは言えない。その点において、政治家としての責任を免れることはできないであろう。
しかし、より深刻な問題は、その藤田氏を断罪した橋下徹氏が掲げる「公正の物差し」が、自らの発言や態度に対しては、いかにもろく、いかに恣意的であるかという点にある。このような態度は、橋下氏が主張する「見た目の公正さ」を、彼自身が最も欠いているという痛烈な皮肉を呈している。
橋下氏のいう「外形的公正性」は、一見すると国民に寄り添った清廉な政治を求める主張のように響く。しかし実際には、政治を形式主義に陥らせ、政治家から活力を奪い、最終的には彼自身の都合に合わせて解釈・運用されかねない危うい二重基準である。
維新の内紛が激しさを増しているのは疑いようがない。さらに経済合理性を欠いた政策に頼る姿は、これまで維新が批判してきた「ザ・自民党」と変わらない。
藤田氏が共同代表に就任して以降、教育費の税負担化といった分配政策や、万博などの公共事業に依存する従来のリベラル的傾向から、ようやく抜け出そうとする兆しが見え始めていただけに、今回の問題は極めて残念である。
とはいえ、藤田氏には丁寧な説明責任を果たしたうえで、維新が本来の改革政党として再生していくことを願いたい。
文/小倉健一

