清武代表との1対1の会食
当時、交渉相手となる選手関係委員会の委員長は、巨人の清武英利代表であった。
読売新聞社に記者として入社以来、社会部畑を渡り歩き、次長時代に山一証券の破綻をスクープしたことで知られる清武は、当時は巨人軍球団代表として強引な強化に頼らない生え抜きの選手育成に尽力し、その手腕が他球団からも評価されていた。
宮本は会長に就任後、しばらくすると清武と2か月に1度の割合で1対1で会食をするようになった。
「僕は事務折衝に何回か出たときにこのままでは、なかなか話がまとまらないと感じたんです。双方で譲歩するにしても結局、話を持ち帰って次回にまたやりましょうとなってしまう。
それなら、根回しではないですが、担当の清武さんとサシで話し合って、『次回にこれを持ってきてください、僕も選手会の意見をまとめてきます。その方が次の事務折衝がスムーズにいきやすい』と伝えて、それから対話していきました」
選手の現役寿命はあまりにも短い。宮本は改革にスピードを求めていた。清武も同意し、会食は定例化していった。食事代は徹底して割り勘であることにこだわった。
後に渡辺恒雄読売グループ会長の専横を告発する「清武の乱」を起こすことになる清武は、交渉事においても情熱的だった。ときに杯を交わしながらも宮本は冷静に人物を見ていた。
熱血漢で「野球界のために」という部分では、多くの部分を譲ってくれる。ただ、やはり、最終的な落としどころとしては、ジャイアンツに得をさせたいという気持ちは垣間見えた。そこを突こうとすると、途端に清武は機嫌が悪くなった。
守ろうとした選手の肖像権
宮本は要求をただ掲げるだけではなく、前に進むためには選手も痛みを共有しようという姿勢を貫いた。
2005年末の選手会総会では、年俸1億円以上の選手の減額制限を、これまでの30%から40%に引き上げることを承認している。経営者側からの減額要求は50%だったが、これを40%として早めに妥結させ、スピーディに他の事案を審議して行こうという意志の表れであった。
特筆すべきは、選手の肖像権に関する闘いであった。これまで選手の肖像権は一括して球団に管理されていた。統一契約書の第16条(写真と出演)にはこうある。
「球団が指示する場合、選手は写真、映画、テレビジョンに撮影されることを承諾する。なお、選手はこのような写真出演等にかんする肖像権、著作権等のすべてが球団に属し、また球団が宣伝目的のためにいかなる方法でそれらを利用しても、異議を申し立てないことを承諾する」
この統一契約書の条文自体、米国メジャーリーグの規約を輸入して参考にしたものであるが、その米国では、ニューヨーク・メッツの選手が起こした肖像権訴訟で球団が使用できる「宣伝目的」の意味が明確にされるなどにより選手の権利が広く認められている。
曰く、「宣伝とは、試合の告知ポスターなどを意味しており、グッズなどの商品化は含まない」というものであった。
そこでメジャーでは、この商品化における肖像権を選手会の管理として、大きな財源とした。MLPBA(メジャーリーグベースボール選手会)を世界最強の労働組合に育て上げた剛腕選手会事務局長マービン・ミラーの功績である。
ところが、日本では1951年に制定された統一契約書の解釈が曖昧なまま、肖像権がすべてにおいて選手の手から離れてしまっていた。

