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「饅頭を白米に乗せてお茶漬けに」「刺身は醤油煮」 森鷗外を悪食に走らせた2つの理由…潔癖症ともうひとつは意外な郷土料理への愛だった

「饅頭を白米に乗せてお茶漬けに」「刺身は醤油煮」 森鷗外を悪食に走らせた2つの理由…潔癖症ともうひとつは意外な郷土料理への愛だった

陸軍軍医にして作家という異色の文豪、森鴎外。だが彼には常人には理解できない悪食癖があった。白米に饅頭をのせてお茶をかける饅頭茶漬けに、果物までも煮て食べる徹底した加熱主義……その異様な食へのこだわりの奥に潜んでいたものとは。

 

知られざる鴎外の癖を描いた『文豪の憂鬱な癖』より一部抜粋、再編集してお届けする。〈全4回のうち2回目〉

衛生学の研究が育んだ珍妙な創作料理

1890(明治23)年発表の『舞姫』や1911(明治44)年発表の『雁』など、数多くの傑作を残した森鴎外。誰もが知る大作家であるだけでなく、陸軍軍医、翻訳家、大学講師、帝室博物館(現在の東京国立博物館)総長としても優れた功績を残している。

この立派な経歴だけ見ると、お堅い常識人という印象を受けるだろう。しかし、鴎外は常人には理解しがたい風変わりな嗜好を持っていた。「悪食」である。

鴎外による悪食の代表といえば、「饅頭茶漬け」が挙げられる。これは白米の上にアンコ入りの饅頭を割ってのせ、お茶をかけて食べるというもの。この饅頭茶漬けなるものを何よりも好み、事あるごとに食べていた。子どもの頃から大の甘党だったとはいえ、なんとも珍妙な組み合わせである。

キテレツな食好みは他にもある。干し柿を白米の上にのせてお茶をかける「柿茶漬け」、焼いた餅を醤油に浸し白米の上にのせてお茶をかける「餅茶漬け」、刺身を醤油とみりんと日本酒で煮た「醤油煮」など、いずれもおいしそう……ではない。

鴎外が好んだ悪食のルーツは大きくふたつ。

ひとつは、“細菌嫌悪”に由来する。

かなりの潔癖症としても知られる鴎外だが、きっかけは4年間のドイツ留学で学んだ「衛生学」である。大学の医学部を出て軍医となった彼は留学を命じられ、ミュンヘンにて細菌学の権威ペッテンコオフェルに学ぶ。さらにベルリンにて細菌学者コッホの衛生試験所で研究に従事した。

そこで細菌学に精通すると、過剰なまでの潔癖症に陥る。とくに“生モノ”に対して強烈な警戒心を抱くようになり、日本に帰国してからは、沸かしていない水は決して飲まず、大好物だった果物ですら生のままでは口にできなくなった。

しかし、果物への欲求がどうにも抑えきれなかったのだろう。鴎外は果物を鍋で煮込んで食べている。果物といえば新鮮なみずみずしさが魅力だが、そんなことより火にかけて細菌を死滅させるほうが重要だったわけだ。

子どもたちを連れて通った西洋レストランでも細菌学・衛生学的なこだわりを見せている。どんな店であろうと「マヨネーズのようなドロドロしたものは食うな」と叱咤するのが常であった。“ドロドロとしたもの”は、人の手によってさまざまな食材が攪拌されているため、手に付着したばい菌が媒介する恐れがあり、また器具を使ったとしても攪拌の過程で空気中に浮遊する細菌が入り込んでいるという強い不信感があったのだ。

郷土料理「うずめ飯」と最期に示した津和野への想い

鴎外の悪食のもうひとつのルーツは、故郷・津和野にあると思われる。

森鴎外は本名を林太郎といい、1862(文久2)年、石見国鹿足郡津和野町田村(現在の島根県鹿足郡津和野町町田)の貧乏な医者(典医)の跡継ぎとして生まれた。

貧しい環境にあっても幼少期から神童ぶりを発揮していた鴎外に対し、両親は「森家」の家名を挙げるため立身出世を切望する。そして、鴎外がわずか10歳のときに、代々藩医を務めていた津和野を捨て一家総出で上京した。以後、鴎外自身は一度も津和野に帰ることはなかった。

鴎外は期待に応えるべく必死に勉学に励み、年齢を2歳偽り11歳で第一大学区医学校(現在の東京大学医学部)の予科に入学する。ちなみに当時の入学年齢制限は14~17歳だ。その後、同校医学部本科を19歳で卒業している。

それからは食いっぱぐれのない軍医の道に進み、陸軍省医務局長(人事権を持つ軍医のトップ)にまで上りつめた。さらに、作家、翻訳家としても活動し、宮内省帝室博物館総長兼図書頭、帝国美術院初代院長、慶應義塾大学の文学科顧問と、その活躍の幅は多岐にわたった。

60歳で亡くなるが、死の1カ月前まで公務を全うしていたという。鴎外の墓は現在ふたつあり、長く暮らした東京と故郷・津和野に建てられている。ひとつは東京都三鷹市の禅林寺、もうひとつは島根県津和野町の永明寺だ。ちなみに、禅林寺は太宰治の墓があることでも知られる。

死の3日前、鴎外は「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」「墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス」などと書かれた250字余りの遺言を残している。

これはすでに自ら筆を執る力さえなくなっていた鴎外が、学生時代の親友・賀古鶴所に代筆を頼んだものだ。遺言を要約すると「自分はあらゆる肩書きを捨て、石見の国で生まれた森林太郎という一個人として死ぬ」である。

この遺言からは、10歳にしてその地を離れ、その後は一度も帰郷しなかったにもかかわらず、津和野に激しい想いを募らせていたことがうかがえる。すべてをなげうってまで寄せる家族の期待を一身に背負っていたがゆえに、故郷への思慕の念には長年蓋せざるを得なかったのかもしれない。

そんな津和野には「うずめ飯」という郷土料理がある。鴎外も幼少期にその味に親しんだという。うずめ飯は、細かく切って出汁で煮た野菜や豆腐などの具材と汁を器に盛り、それらを隠す(うずめる)ように上から白米をのせた料理である。どことなく、鴎外が愛してやまない「饅頭茶漬け」に通ずる。

また、エリート街道を歩み、家族の期待以上に立身出世を果たしたあとも、鴎外が普段の食卓で好んでつくらせていたのは、牛の肉汁だけで煮込むキャベツ巻きやジャガイモコロッケといった、留学中に覚えたドイツの質素な家庭料理であった。

西洋レストランで食事をする際も、ステーキやハンバーグといった上等な料理には一切興味を示さなかったという。

どんなに裕福になっても、食に関しては貧しかった幼少期のままで、庶民的な感覚の持ち主でもあったといえるだろう。表には決して出さないけれど、“舌”の上では大切な郷土への愛を素直に表していたと考えれば納得できる。たとえそれが周囲からすると悪食であったとしても。

なお、禅林寺と永明寺のどちらの墓にも、鴎外が望んだとおり栄誉や称号の類はもちろん、「鴎外」という号すら記されることなく、ただ「森林太郎墓」とのみ刻まれている。

#3に続く

監修/朝霧カフカ 写真/Wikimedia Commons、Shutterstock

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