ノーベル文学賞候補、7回。日本文学史における耽美派の旗手・谷崎潤一郎は、生涯を通じて「女性の足」に魅了され続けた。『刺青』『痴人の愛』など数々の名作の源泉となった谷崎の“マゾヒズムの快楽”とは。
文豪たちの癖エピソードをまとめた『文豪の憂鬱な癖』より一部抜粋、再編集してお届けする。〈全4回のうち3回目〉
晩年になっても「ご主人様」に踏まれることを懇願
谷崎潤一郎は、1958(昭和33)~1965(昭和40)年の8年間で、じつに7回もノーベル文学賞候補となっている。
“美”を最高の価値と考え、「耽美派」に分類される谷崎は、女性という生きものに執着し、美しく表現することに情熱を注ぎ続けた。また、女性に対して純潔や処女性といった高い貞操観念が求められた時代に、欲情を煽り立てる蠱惑的な女性を描いた作品をいくつも発表し、日本における「性愛文学」というジャンルを確立した。
その巧みな文章表現と優れた芸術性は、日本のみならず海外からも高く評価されている。
谷崎は、女性の肉体(それも白いはんぺんのようなむっちりとした質感)への傾倒に加えて、肉体的にも精神的にも「マゾヒズム」を嗜好した。
とくにこだわりを持っていたのが“足”だ。生前に「自分の墓石を好きな女の脚の形にしてほしい」といい放つほどの足フェチで、作品の中でもたびたび尋常ならざる足への執着を露わにした。
それは1910(明治43)年発表のデビュー作『刺青』にしてすでに表われており、女性の足の美しさを精緻に描写している。
――その女の足は、彼に取つては貴き肉の宝玉であつた。拇指から起つて小指に終る繊細な五本の指の整い方、絵の島の海辺で獲れるうすべに色の貝にも劣らぬ爪の色合ひ、珠のやうな踵のまる味、清洌な岩間の水が絶えず足下を洗ふかと疑はれる皮膚の潤沢。この足こそは、やがて男の生血に肥え太り、男のむくろを蹈みつける足であった。
また、この『刺青』にも書かれているように、谷崎にとって女性の足は単に眺めたり触れたりするものではなく、“踏まれる”ためのものであった。その欲望は現実でも抑えられなかったようだ。
――薬師寺の如来の足の石よりも君が召したまふ沓の下こそ(『谷崎潤一郎=渡辺千萬子 往復書簡』より)
谷崎は生涯で三度結婚しているが、この歌は三番目の妻・松子の連れ子である渡辺清治の妻(つまり谷崎にとって義理の息子の奥さん)の千萬子に贈ったものだ。意訳すると「仏の足に踏まれるより、あなたに踏まれたい」である。この“あなたに踏まれたい”という願望は、歌を贈った2、3カ月後に実現した。
――話をしている最中に突然、まるで五体投地のように目の前にばたっとひれ伏して、頭を踏んでくれと言われた時のことです。(中略)言われるままに踏んだのです(渡辺千萬子『落花流水』より)
この出来事に対して、谷崎は数日後に送った千萬子への手紙で「生涯忘れられない歓喜であります 決してあれ以上の法外な望みは抱きませんから何卆たまにはあの恵みを垂れて下さい」と、さらに懇願している。このとき、谷崎は77歳。亡くなる2年前である。
美しい足に踏みつけられたい、苦痛を与えられたいというマゾヒスティックな欲望に死ぬまでとり憑かれていたようだ。なお、千萬子は谷崎の晩年の作品『瘋癲老人日記』のモデルといわれる。
作品のネタとした女性たちとの交流と三度の結婚
谷崎のエキセントリックな性癖に大きな影響を与えたのは、母の関である。彼女は錦絵のモデルになるほどの美貌の持ち主であった。
1886(明治19)年、そんな母・関と入り婿だった父・倉五郎との間に谷崎は生まれた。東京の日本橋人形町という都会で育ち、神童と讃えられるほどの秀才ぶりを発揮する。感受性の強い谷崎は、幼いながらに母の美しさ、それも肉体の妖艶さをすでに認識していたという。
――顔ばかりだけでなく大腿部の辺の肌が素晴らしく白く肌理が細かだつたので、一緒に風呂に這入つてゐて思わずハツとして見直したこともたびたびであつた。(『幼少時代』より)
風呂の水に浸った母の白く豊満な肉体は、幼い谷崎に衝撃を与え、彼が追求する「美」の定型として、その後の人生と作品に絶え間なく働きかけることとなる。
谷崎の最初の結婚は1915(大正4)年のこと。相手は家庭的で慎ましい性格の石川千代だった。しかし、谷崎はすぐに千代の妹・せい子に惹かれてしまう。彼女は千代とは正反対のわがままで自由奔放な性格。さらに出会ったときに14歳でありながら年上の谷崎に平気で口答えをするほどの気の強さもあった。
マゾっ気を刺激された谷崎はせい子に猛アタックし、やがてふたりは関係を結ぶ。谷崎はせい子を横浜にある映画会社の看板女優にするために当地に家を借り、あろうことか同棲を始めた。
これを知った千代は当然強いショックを受け、谷崎の友人である作家の佐藤春夫に相談するようになり、やがて佐藤と千代は関係を持つ。
その後、谷崎は千代を佐藤に譲るという約束を交わすが、せい子にふられたことでその約束を撤回する。怒った佐藤は絶交を申し渡した。その後、ふたりは和解して谷崎と千代は離婚し、晴れて佐藤と千代は結ばれることとなった。
なお、千代は『蓼喰ふ虫』に登場する美佐子、せい子は『痴人の愛』に登場するナオミのモデルである。
谷崎の二度目の結婚は1931(昭和6)年のことで、相手は20歳年下の記者・古川丁未子だった。しかし、結婚後まもなく、谷崎はのちに三番目の妻となる根津松子と不倫したため、この結婚生活は3年と保たなかった。
ダブル不倫の末、松子と三度目の結婚を果たしたのは1935(昭和10)年のこと。17歳も年の離れた松子とその妹たちは、翌年に発表する傑作『細雪』に登場する四姉妹のモデルである。
結婚前、家庭のあった松子に宛てた書簡には、“洗練されたクールな都会人”という谷崎のイメージからはかけ離れた、気恥ずかしい文面も多数見つかっている。
――御主人様、どうぞどうぞ御願ひでございます御機嫌を御直し遊はして下さいまし(中略)御腹立ちが癒へますやうにと一生懸命で御祈りいたしました、眠りましてからもぢつと御睨み遊ばした御顔つきが眼先にちらついて恐ろしうございました、ほんたうにゆうべこそ泣いてしまひました(中略)今度からは泣けと仰つしやいましたら泣きます、その外御なぐさみになりますことならどんな真似でもいたします(千葉俊二編『谷崎潤一郎の恋文』より)
このように谷崎は松子を「御主人様」と称し、下僕になりきって書いた恋文をなんと約300通も交わしたという。谷崎が求めたマゾヒズムの作品世界は、松子という偉大なる理解者によって大きく広がったといえる。
日本的な美学を追究した谷崎の作品からは独特な色気が感じられ、その美意識の核心部には官能的な女性が常に潜在していた。
晩年の谷崎は熱海で暮らし、1965(昭和40)年7月30日、松子に看取られて刺激的な女性を求め続けたその生涯を穏やかに終えている。
#4に続く
監修/朝霧カフカ

