天正10年(1582年)、本能寺の変で主君・織田信長を討った明智光秀は、実に謎に包まれた人物だ。その後、豊臣秀吉との戦に敗れて「三日天下」で終わったが、遺骸は見つかっていない。生き延びて、のちに上野寛永寺を建立した天海僧正になり、徳川家康を支えた、という話も残っている。そして前半生も、よく分かっていない。
根強く残るのはなんと、「光秀は東北人だった」というものだ。
明智家は美濃の守護大名・土岐氏の支流だったといわれる。土岐氏は清和源氏の流れを汲み、明智家は室町時代に土岐氏が分割相続していた頃、一族の分家として誕生した。そのため、光秀も一時は土岐氏の姓を名乗っていた時期があったとされている。
土岐氏の支流なら当然、現在の岐阜県出身だが、光秀の関連施設が多いのはなんと、山形県。光秀の墓「桔梗塚」まで存在しているのだ。墓だけならその後、生き延びて山形県にたどり着き、生涯を終えただけかもしれない。また、落ち延びる際に溺死したため、家来が遺品を故郷に持ち帰り、墓を建てたという説もある。
いや、墓だけではない。山形県は光秀の生誕地として伝承される。山形市中洞地区にある白山神社には、そこで光秀の母が産湯を汲んだとされる井戸があるのだ。その近くの武蔵川には、母が身ごもった際に安産を祈願して「生まれる子が男の子なら、3日でよいから天下を取るような立派な子を授けてください」と祈ったと伝えられる「行徳岩」がある。
これは母の里が山形だった公算が大きいだろう。さらに県内には美濃国守岐氏の最後の居館「大桑城」が現存する古城山がある。
光秀が東北人ではなかったと、全面的に否定する根拠はない。当時の日本の中心は近畿や東海地方。その頃、東北人の光秀が謀反を起こしたのは、古来より中央政府に弾圧されてきた東北人のDNAがなせる仕業だったような気がする。
(道嶋慶)

