暴れる、蹴る、立ち上がる、乗り役を振り落とす、噛み付く、逸走する、急に斜行して他馬に体当たり…。400㎏台前半の小柄な馬ながら、思いつく限りの乱暴をやり尽くす気性の悪さは折り紙付き。「小さな暴君」とでも呼びたくなるような存在がステイゴールドである。
その激しい気性は主に父であるサンデーサイレンスから譲り受けたものだと言われている。サンデーサイレンスは現役時代、厩舎で一番の腕利き攻め馬手を背に調教を行なったが、あまりの気性の悪さに呆れてすぐに降板。伝説的名騎手であるウィリー・シューメーカーも調教に騎乗した際の彼の粗暴さに激怒し、レースへの騎乗を断った。
米三冠の2レース目、プリークネスステークス(GⅠ)でイージーゴアと競り合った際、ライバルが前に出ようとすると何度も噛み付きにいった(結果は競り勝って優勝)。能力の高さはもちろんだが、サンデーサイレンスの激しい気性は怪物級の強さの原動力であった一方、それは狂気と紙一重の差しかない難物だったのだ。そして、その気性がステイゴールドに色濃く受け継がれていたのは疑いのないところだ。
とにかく、勝てない馬だった。「体は小さいものの、動きのしなやかさは抜群」という牧場時代の評価の高さを考えると、それは不思議なほどだった。初勝利を挙げたのはデビュー半年後、6戦目のこと。次戦の500万下特別を勝ち、4着を挟んで900万下特別で3勝目をゲットしたが、その後は京都新聞杯(GⅡ)が4着、菊花賞(GⅠ)が8着。自己条件に戻って仕切り直すと、そこから何と4連続2着を記録する。
のちに「シルバーコレクター」との異名を得る馬の面目躍如たる戦績だが、その4つ目の2着は格上挑戦のダイヤモンドステークス(GⅢ)だったのだから、本当にステイゴールドという馬は分からない。ひとつ言えるとすれば、有り余る才能をメンタルな何かが阻害しているのだろうことである。
とはいえ、5歳となった1998年は実りある年だった。春の天皇賞(GⅠ)でメジロブライトの2着、宝塚記念(GⅠ)でサイレンススズカの2着、秋の天皇賞(GⅠ)がオフサイドトラップの2着、有馬記念がグラスワンダーの3着にそれぞれ入賞。ダイヤモンドステークスで一足飛びにオープン入りしたステイゴールドは1年間を未勝利で終えたものの、GⅠで上位争いを演じられるところまで成長したのである。 6歳、1999年の春シーズンは、いささか意地悪に言うと、その戦績は前年と打って変わって「ブロンズコレクター」としての色を濃くした。天皇賞(春)、宝塚記念を含む重賞に6回出走して3着が4回。下半期にも天皇賞(秋)を2年連続2着して、能力の高さは示したものの、この年までに、実に20連敗を喫していた。
7歳、2000年はGⅠ実績がすぐれなかったが、アメリカJCC(GⅡ)を2着、京都記念(GⅡ)を3着、日経賞(GⅡ)を2着で進み、天皇賞(春)を4着として5月の目黒記念(GⅡ)に臨む。主戦の熊沢重文に替わってオファーを受けた武豊を背に臨んだこの一戦。ステイゴールドは雨で重馬場となったタフなコンディションのなか中団の9番手を追走。直線へ向くと58㎏という最高ハンデをものともせずに爆発的な末脚を繰り出し、先行して粘るマチカネキンノホシを楽々と差し切って優勝。雨の中のGⅡ、しかも土曜日の開催にもかかわらず、観客の間から爆発的な拍手と歓声が沸き起こった。それはステイゴールドがファンの間で個性派アイドルホースとして迎えられている事実を表していた。
2001年、8歳になったステイゴールドにとってラストイヤーとなるこの1年は波乱万丈の展開となる。藤田伸二に手綱を託された初戦、日経新春杯(GⅡ)を58.5㎏という酷量ながら3番手から抜け出して快勝。年齢的な衰えがないことを証明すると、その勢いを駆って臨んだのは、自身初の海外遠征となるドバイミーティングだった。
彼が参戦したのはドバイシーマクラシック(芝2410m)。当時はまだG2だったが(2002年からG1)、賞金の高さもあって集ったメンバーはワールドクラスレベル。なかでも注目を浴びていたのは、ゴドルフィン所属でフランキー・デットーリが騎乗するファンタスティックライトで、前年の本レースで英ダービー馬ハイライズを破って勝利を収め、暮れの香港カップを好位からの鋭い差し脚で快勝。2000年シーズンの世界チャンピオンを決める『エミレーツワールドレーシングチャンピオンシップ』で堂々1位にランクされていた。
ステイゴールドは輸送に異例の長時間を要したこともあって体調が万全ではないと伝えられるなか、武豊を背にゲートイン。道中は中団馬群のファンタスティックライトを前に見る位置でレースを進めて直線へ向く。そして馬群を捌いて進路を確保すると、先に抜け出していたファンタスティックライト目掛けて強烈な切れ味を持つ末脚が炸裂。一完歩ごとに差を詰めて、馬体が並んだところでゴールラインを通過した。勝敗が写真判定に持ち込まれたが、わずかにハナ差でステイゴールドが先着。世界レベルの強者を倒して、遠く離れた日本のファンを大いに沸かせた。 帰国後、宝塚記念を4着として春シーズンを終えたステイゴールドは夏の休養を経て10月の京都大賞典に出走するが、ここで大きな失態を起こしてしまう。テイエムオペラオーやナリタトップロードが顔を揃えたこのレース。3番人気に推されたステイゴールドは直線で人気の2頭を追撃して内から交わそうとしたが、後藤浩輝が振るった右ムチに対して敏感に反応し、急速に外へと斜行。ナリタトップロードの進路をカットし、ステイゴールドの後脚に接触したナリタトップロードの手綱をとる渡辺薫彦を落馬させた。このため1位で入線しながら失格となり、多くのファンを落胆させてしまった。
ドバイ遠征以来のオファーを受けて武豊が鞍上を務めた天皇賞(秋)が7着、ジャパンカップが4着と、今ひとつの成績に終わったステイゴールド。手応えがありながら伸び切れなかったのは左にもたれるのが原因ではないかとの指摘を受けた厩舎スタッフは、その矯正のため左目のみを覆う浅いブリンカーを装着することを決断。ラストランとなる香港ヴァーズ(G1)へと旅立った。
この年の香港ヴァーズで注目されたのは、ゴドルフィンに所属し、フランキー・デットーリが騎乗するエクラール。そう、ドバイで破ったファンタスティックライトと同じコンビが送り込んできた刺客だった。この運命的手合わせにおいて、デビュー50戦目のステイゴールドは奇跡を起こす。
好スタートを切ったエクラールは、鞍上と折り合ってスローペースの2番手に付ける。対して大外枠から出たステイゴールドは中団馬群のなかを進み、他馬の動向を見ながらレースを進めた。そして迎えた第3コーナー、デットーリのゴーサインを受けたエクラールがロングスパートに入って一気に後続を突き放し、十分な手応えを残しながら直線へと向いた。
2番手集団から抜け出そうとするステイゴールドだったが、前との差はまだ5~6馬身。勝負あったかに見えた。しかしここからステイゴールドは、武豊が「背中に羽が生えたかのようだった」と振り返る、飛ぶような走りで猛然と追い込んでいく。3馬身、2馬身、1馬身と、みるみるうちに差を詰めると、ゴール寸前でエクラールを捉えてアタマ差でゴール。ラストランで誰もが臨んだG1タイトルを手にするという、あまりにも劇的なレースを見せたのだった。
この日はその後、香港マイル(G1)でエイシンプレストンが、香港カップ(G1)でアグネスデジタルがそれぞれ優勝し、4つのG1のうち3つを日本馬が制する”ジャパン・デー”となった。 ステイゴールドの伝説は、これだけでは終わらなかった。馬生の第二幕、種牡馬として大方の予想を遥かに超える成功を収める。
2年目の産駒からドリームジャーニー(朝日杯フューチュリティステークス、宝塚記念、有馬記念)を出すと、ナカヤマフェスタ(宝塚記念、凱旋門賞2着)、そしてオルフェーヴル(クラシック三冠、有馬記念2回、宝塚記念)、ゴールドシップ(皐月賞、菊花賞、有馬記念、宝塚記念2回)と、立て続けにスーパーホースを輩出した。
そして、フェノーメノ(天皇賞(春)2回)、レッドリヴェール(阪神ジュベナイルフィリーズ)、アドマイヤリード(ヴィクトリアマイル)、レインボーライン(天皇賞(春))、ウインブライト(クイーンエリザベス2世カップ、香港カップ)、インディチャンプ(安田記念、マイルチャンピオンシップ)と、おびただしいほどの数のGⅠホースを送り出した。また障害の分野においても、中山グランドジャンプ6勝、中山大障害3勝という不滅の記録を残したオジュウチョウサンもステイゴールドの遺産である。
2015年2月5日、北海道・門別町のブリーダーズ・スタリオン・ステーションで種付け後に急死。21歳といういささか早い死は惜しまれるが、大きな故障もなく50戦を走り抜き、種牡馬としても偉大と呼んでいいほど大きな功績を残した彼にこれ以上を望むのは贅沢なのではないかとも思う。いつまでも”愛すべきやんちゃ坊主”としてのステイゴールドの姿が今も残っている。(文中敬称略)
文●三好達彦
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