「ミスタージャイアンツ 長嶋茂雄 お別れ会」が11月21日、東京ドームで開催された。愛弟子の元巨人・松井秀喜氏が別れの言葉を述べて、
「今日(21日)はあのドラフト会議の日からちょうど33年。私をジャイアンツに導いて下さり、ありがとうございました。監督により、私の野球人生は美しく彩られました」
2人の師弟愛についてはこれまでも多くのことが語り継がれているが、松井氏からの「お願い」のうち、ミスターが最後まで首を縦に振らなかったものがある。それは「巨人軍のサードを守る」ということだった。
古参の巨人担当記者が言う。
「そもそも松井氏は、掛布(雅之)さんに憧れて野球を始めました。当初、右打ちだったのを左打ちに変える熱の入れようだった」(古参の巨人担当記者)
それゆえ巨人に入団してからは、
「毎年、三塁手用のグローブを持参していた」(前出・巨人担当記者)
当時の長嶋監督は松井氏を「1000日かけて巨人の4番にする」と目標を掲げ、徹底的に鍛え上げた。なのに「4番・サード松井」に最後までゴーサインを出さなかったのにはワケがある。先の巨人担当記者は、ミスターのこんな言葉を思い出したという。
「巨人軍は日本全国で3000万人以上のファンの皆さまがいらっしゃる。その方々のために何が必要か、それはまずは勝つこと、そしてお客様に喜んでもらうこと。この2つはどうしても外せない。大切なんです。はい」
ことあるごとにそう訴えていたミスターだったが、
「あの頃、長嶋監督の中では三塁は福留(孝介)、遊撃は井口(資仁)こそが巨人にとって、そして日本プロ野球にとって最高の三遊間になる、と話していました。それも真顔で、ですよ。『それなら松井は?』と聞くと、こう言いました。『ゴジラが三塁用のグローブを宮崎に持ってきていることは知っています。でも三塁はダメです。できません。松井の定位置はセンターです』。長嶋さんはそう言い切っていました」(前出・巨人担当記者)
松井をドラフトで引き当てた後だけに福留、井口の両氏もドラフトで獲得できるチャンスはあったが、最終的に「縁」がなかった。
この日の長嶋さんの祭壇は、東京ドームのセンターのポジションに飾られた。
「私がいつも守っていました、この東京ドームのセンターで今、監督にお別れの言葉をお伝えしています。これからは自分の心の中の長嶋茂雄と話し合いながら、私なりの道を進んで参ります」
松井氏は力強く話すと、参列者から大きな拍手が湧き起こっていた。
(小田龍司)

