「DA.YO.NE」で日本語ラップの可能性を広げたGAKU-MC。EAST END×YURIでのブレイクを経て、現在はソロ、そしてMr.Childrenの桜井和寿とのユニット「ウカスカジー」など多彩な形で音楽と向き合い続けている。
彼にとって「DA.YO.NE」は1995年のNHK紅白歌合戦に出場するなど、アーティストとしての自信をくれた曲であり、同時に音楽活動への迷いを生んだ曲でもあるという。キャリアの節目で何を感じ、どう選択してきたのか。(前後編の前編)
人生の転機となったライブ
1994年に発売された「DA.YO.NE」は、日本語ラップ曲として初めてミリオンセラーを記録。続く2ndシングル「MAICCA〜まいっか」はその売り上げを上回り、デビューから2作連続でミリオンを達成――。
ヒップホップユニット・EAST ENDと、当時はアイドルグループ・東京パフォーマンスドールのメンバーであった市井由理が1994年に結成したEAST END×YURIは、日本語ヒップホップを一般層に浸透させたパイオニア的存在だ。
「EAST END×YURIの結成は自然な流れでしたね。友達だった由理ちゃんに『ラップを教えてほしい』と言われて、教えてるうちに、せっかくだからと彼女のライブにゲストで出ることになったんです。
女子のライブですから、当然お客さんは男が多かった。我々は『罵声を浴びせられるんだろうな』と思いながら行ったんですけど、その日のために作ったラップを一生懸命やったら、想像をはるかに超えて盛り上がった。なんなら自分たちのソロライブよりも盛り上がったかも(笑)。あれは、人生の中でも転機になったライブの1つだと思います」(以下、GAKU-MC)。
1990年代前半のアメリカのヒップホップは、人種差別への抵抗や貧困、暴力性や自己顕示を歌詞に載せる作品がチャートを席巻。一方、日本ではまだまだアンダーグラウンドの存在だった。そんななか、高校時代にヒップホップに出合ったGAKU-MCはラップの道を志す。
「大学時代は毎日日焼けしてアフロにして、とにかく黒人の動きを真似してました。でも、黒人の友達に『なんで俺らの真似すんの? 文化も違うし、そのままでいいじゃん』って言われて、考え方が変わったんです。
彼らは彼らの悩みの中で作ったアートがヒップホップ。じゃあ日本人の僕はどんな悩みを持ってるんだろうって考えたら、もっとパーソナルなものだなって。人種差別はわからないけど、『自分自身がわからない』『どう暮らしていけばいいかわからない』といった悩みは僕にもある。そういうところにフォーカスするのが、日本のヒップホップの姿なんじゃないかなって思えたんですよ」
「良くも悪くもリアクションがある方がいい」
そんなGAKU-MCにとって、日常生活での不満や気になることを軽やかにラップに落とし込んだ「DA.YO.NE」は目指すスタイルの到達点でもあった。
「まず、由理ちゃんっていうアイコンがあったのはもちろん大きいと思います。曲については、『ポップですよね』『キャッチーですよね』『狙ってますよね』などと言われたけど、紐解くと、自分たちなりの悩みを曲にしていくっていうヒップホップの核みたいなところは考えていたので、ヒットして“しめしめ”っていう感じでしたね」
だが、ヒットの代償も大きかった。
「仲間だと思っていたやつらからも『(世間に)魂売ってるんじゃないか』って批判されたこともありました。当時はメンバー以外、誰も信じられないみたいになりましたね。今みたいにSNSがあったら、もっとズバズバ鋭い刃みたいな声がきていたのかなとは思います(笑)。
でも今考えると、それは誰も見たことのない景色を最初に見た証。良くも悪くもリアクションがある方がいいなって今は思えるんですけどね」
成功を収めたことは人間への不信感だけでなく、その後の活動方針にも迷いをもたらした。結成から3年経った1996年にEAST END×YURI、さらに1998年にはEAST ENDの活動を休止。GAKU-MCは何を作ればいいのかわからなくなってしまったという。
「全てが迷走というか、今考えるとどん底だったなと。由理ちゃんはEAST END×YURIをやる前からソロアルバムを用意していたので、落ち着いたタイミングでそれを出すことになったんですけど、『じゃあ俺たちどうしよう…』みたいな。
『違う女の子を入れればいいじゃん』とか、『クラブシーンに戻るべき』とか、いろんな議論がありました。『DA.YO.NE』で自信はできたのに、何を作ればいいのかわからなかった。人が求めるものを作るのか、自分がやりたいことを書くのか。
両方とも正解だと思うけど、自信がない時って『これが正解だ』って言えない。だから一旦やめようと、EAST ENDも活動休止するに至りました」

