前提として、完全にどうかしている映画だ。設定は矛盾し、説明は放棄され、場面は理不尽に移り変わる。キャラクターの心情や理念に合理性はなく、繰り返し観客の感情移入を拒む。
今ここで何が起き、何のためにここにいるのか? 彼らは何を目指しているのか? 徹頭徹尾筋道というものを無視するストーリーに、観客の頭には無限の?マークが浮かぶだろう。
ただそれは、必ずしも悪い意味だけではない。個人的な気持ちを言ってしまえば、『果てしなきスカーレット』は、前作『竜とそばかすの姫』および前前作『未来のミライ』よりも、よほど見てほしい作品だ。もし可能であれば、先入観なしに。
※以下、『果てしなきスカーレット』のネタバレを含みます
まず言っておきたい。本作は明確に、ファミリー向け映画ではない。16世紀デンマークを舞台に、「ハムレット」を下敷きにした王弟の計略によるクーデターから物語は始まる。若き王の娘スカーレットは復讐の炎をその目に宿す強き娘であり、大筋ははっきりとした復讐悲劇だ。
現王の暗殺を試みるも逆に毒を盛られてしまったスカーレットの物語は、稲光と暗雲立ち込める死者の世界から始まる。これまで細田が大作映画にて繰り返し書いてきたのは近未来の要素を取り入れながらも、「家族」や「青春」の悩みを主軸に書いた「リアル」寄りの物語だった。ただ今作は純然たるフィクションであり、現実ではありえない世界において展開する。
死者の世界に集った異なる時代・国の人間たちが共通言語で意思疎通を行い、砂漠越えのためキャラヴァンを組み、薪で湯を沸かしタオルで体を拭いている。それに伴い観客には「どこで作物を採ってるんだ」「トイレとか行くのか」「なぜラクダがここに」と様々な疑問が浮かぶ。
これらのありえなさの効果は大きい。リアリティーラインを引き下げ、前作や前前作で見られた脚本のゆがみ、すなわち現実と対比した際に浮き彫りになってしまっていた「この展開は倫理的にどうか?」と思ってしまうような部分をほぼ完封している。
それには主要登場人物の多くが、兄殺しの王弟やその部下、復讐に燃える王女といったいわばクリシェ的なキャラクターであることも関係しているだろう。
ただ細田はそこにさらなる異物を投入する。現代の日本から「死者の世界」に送り込まれた男・聖(ひじり)だ。
巨竜が空を覆い尽くし、地には盗賊が跋扈する血で血を洗う終末的世界において、争いの平和的解決と人命の救助を最優先する「いいこちゃん」である聖。彼こそは本作において疑いなく、完全にどうかしているキャラクターであり、彼のあらゆる行動は理解に苦しむ。
さらに彼のギャップはおかしみであったり、世界の非情さを際立たせるように描かれるわけでもない。聖はスカーレットの目的である復讐を留めながら、非日常に溶け込み、更に場面単体としてはなにかいいことを言っているように演出されるため、観客としてはどうしてもそこに奇妙な感覚を覚えざるを得ない。
結論を先に言えば、本作の脚本は完全に破綻している。「父の遺言の真実を知る」という、ほぼ自明で推進力を全く持たないと言っていい物語(らしきもの)が進むにつれ、人格を失ったかのごとく変貌する現王の部下、内面を全て拙いセリフにするスカーレット、そして聖。終盤における死者たちの蜂起、世界の仕組み、唐突なカタストロフ……と、これらについては置いておくとしよう。
特に終盤の展開については本当に脚本を一人で書いたのか? 五人くらいに書かせて無理やりくっつけたんじゃないのか? と思ってしまうほど常人の手には余る。とにかく「なにかいいことが起こっているらしい」場面が並べられるものの、その中身は限りなくうつろだ。
脚本にいくつか注文をつけるなら、親の仇に死の世界での死=虚無化(消滅)をもたらすスカーレットと、人命救助をなりわいとする聖による価値観の衝突は確実に必要だっただろう。聖は物語冒頭より、なんとなくスカーレットに合流し、スカーレットもなんとなく仇を虚無化させることをやめてしまう。
二人の生きてきた時代、これまでの人生、価値観の違いをぶつけることによる相互理解や、それに伴って互いの行動の変化を見せる流れは不可欠だと思うのだが……これまたなんとなく、彼らはいい感じになってしまう。演出としてもどうかと思う現代世界の幻視シーンや、その直前の気の遠くなるような次元跳躍シーンを削れば、ここに関してはもう少しどうにかできただろう。
そして最も大きな問題はクライマックスにある。本作の構造を枝葉にいったん目を伏せて簡素化すると、
①憎しみにとらわれたスカーレットが異界に行く
②スカーレットは異界で新しい価値観に出会い、変化する
③異界から戻り、自身も憎しみの連鎖を止めるべく行動を起こす
というものになる。しかしクライマックスで彼女が立ち向かう世界、聴衆が口々に述べているのは、王弟の支配に対する不満である。更に王は既に死んでおり、彼らは誰かを憎んでいるわけではない。
スカーレットの「憎しみ合うのはやめよう」という演説は、彼らの怒りと呼応しておらず、なんなら「自分を憎むな」というように聞こえかねない。例えば聴衆が不満の原因を隣国に転嫁し、今にも攻め入ろうとしている……といったように、果てしなき憎しみの連鎖にとらわれているのであれば分かる。でなければ、スカーレットの異界での学びと呼応しない。
と、ここまで語ってきたが、私は本作を決して嫌いにはなれない。それはこんな尖りきった映画、なかなか出会えるものではないからだ。これは脚本だけに限らずビジュアル面においても言える。
細田作品のこれまでのビジュアルといえば、それこそ『時をかける少女』から始まった影なし作画による日常風景や夏の青空に浮かぶ積乱雲、『サマーウォーズ』の電脳世界描写が主な武器だった。だが本作では荒廃した大地にうごめく雷雲、無数の剣に貫かれた巨大な竜、マグマを吹きあげる火山にジャングル、フラダンスと手を替え品を替え至れり尽くせり。フラダンスに関してはようやく終わった……と思った途端キャストが代わって再開され、その時はさすがにめまいがしたが。
これらがおそらくは日本のアニメ史上最大級の予算を持って入念に書き込まれており、映像的なインパクトは絶大。そしてそれらのほぼ全てにほとんど必然性がないのである。
ヒット監督の新作映画を見に行って、弩級のカルト作品をぶつけられるというぜいたくな映像体験は年に何度もできるものではない。それに細田作品ファンであれば、目まぐるしく移り変わる彼らの地獄巡りに時折挟まれる『ONE PIECE THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島』や「コロモン東京大激突!」(『デジモンアドベンチャー』21話)をほうふつとさせるいくつかのカット、『少女革命ウテナ』に見られた空虚な王(王子)と世界の憎悪、あからさまな性のメタファーには懐かしさも覚えるはずだ。争いの連鎖を止められない人間たちへの、あまりにも、あまりにも直接的な台詞についても、本作を通して細田が伝えたかったこととして素直に受け取りたい。
繰り返しておくが、これは皮肉ではない。確かに本作は贔屓目に見ても出来のいい感動作ではないし、金曜ロードショーで放送されるたび絶賛されるようなものではないだろう。しかし、突き抜けてどうかしている作品というのは、ウェルメイドな夢物語よりもよほど強い魅力がある。予告編で内容がほぼ全て把握できるような映画が見られる昨今、なんだったんだあれは、という作品との交通事故のような出会いは貴重な経験である。
この文章は公開初日に都内TOHOシネマズでの鑑賞後に書いているが、初日にしては少々寂しい座席の埋まり具合であった。もう5年か10年した後、本作がどこかの名画座で繰り返し上映されるようなカルト的な人気を博したとしても、そこに決して驚きはない。
(将来の終わり)

