2007年頃、胸を激しく叩くギャグ「ンーッ!!」でブレイク、子どもたちの人気者になったパッション屋良。現在は沖縄でパーソナルトレーニングジムの経営をしている。その芸人人生、そして現在の沖縄での生活について聞いた。(前後編の前編)
パッション屋良、沖縄で本物の体操のお兄さんに!
「僕の地元は沖縄県名護市のローカル地区。もともとテレビに出る仕事に興味はありましたが、僕が学生の頃はそんな話をしたら『何言ってるの?』と冷ややかな目で見られる雰囲気はありました」
幼少期から人を笑わせることが好き。でも”テレビの世界でご飯が食べられるほど、世の中甘くないよな”と冷静に考えるもうひとりの自分もいたという。
「そうなると、自分の生活の中でいちばん憧れる存在は体育教師でした。体育学部の大学受験は実技などがあり、普通の受験生とは少し対策が違うんですね。現役合格はできず、農業を営む頑固親父と口論になって『もういい、親の力を借りずに予備校に行く!』と、高校卒業してすぐ上京し、読売育英奨学会に申し込んだんです」
読売育英奨学会の読売奨学生として、朝夕の新聞配達をしながら浪人生活を2年。その後、無事、国士舘大学体育学部に合格した。
「当時の沖縄は、民放放送局が2局だけだったんですね。でも東京に来ると、沖縄にはない日本テレビ、テレビ東京、さらにはテレビ神奈川、千葉テレビ……リモコンのボタンのどこを押しても朝から晩まで面白い番組がやっている。ちょうど『爆笑オンエアバトル』(NHK)が人気で、僕のお笑いに対する想いも過熱していきました。
『せっかく東京にいるのに、このまま教師になるのってどうなんだろう?』『いやいや、やっぱり体育教師を目指すべきだ』とふたつの想いの中を揺れました。さらに、憧れのはずだった体育の先生と再会したんですが、昔とのギャップも感じてしまって。抑えていたお笑い芸人への感情が一気にあふれ出しました。大学を中退してお笑いの道に進みたかったんですが、さすがに卒業だけはしようと思って」
そんな大学4年の時、地元の同級生が(芸能事務所の)人力舎の養成所(スクールJCA)に通っていることを知る。
「会ってみると、彼はちょうどコンビを解散するタイミングで。『じゃあ、一緒に組もうよ』と僕から言って、お笑いコンビ『サミット75』を結成しました。半年以上、いろんな事務所のオーディションを受けに行きましたが、なかなか難しく。(現在も所属する)マセキ芸能社には2度目の挑戦で入れてもらえました」
しかし、コンビは約4年活動したものの、解散。
「調子が良いときって、すべてが円滑に回るじゃないですか? その逆で、ウケないとお互いのせいにし始めて、嫌なところばかりが見えてくる。『あそこのツッコミの間が悪いんじゃないの?』とか。そして、お互いの熱量も変わっていった。
だったら、自分が面白いと思うことを100%やってスベるほうが楽。ピンでやってみようと思いました。当初は陣内智則さんや劇団ひとりさんのような技巧派のコントをやりたかったんですけど……(笑)」
ギャグは偶然の産物
『エンタの神様』(日本テレビ系)にも出演した友人の元お笑い芸人・星野卓也に相談すると、その案は全否定されたという。
「『体育学部卒だし、見た目も“体操のお兄さん”っぽいから、そのキャラを活かしたほうがいい』と。他人の目って客観的だから的を得ていることが多い。当時のネタ見せ番組はキャラを作って、観客とやり取りしながら笑いを作っていくのが主流でしたし。
ある日、公園でネタを考えていたら、虫が僕の胸にとまって。手で払う動作が、ちょっと胸をたたくような仕草になって『あれ、面白いかも?』と。『やらやらバンバン』は本当に偶然の産物なんです」
劇場で披露してみると、特に女性客からは不快の目で見られた。
「でも舞台袖の芸人たちはゲラゲラ笑ってくれている。これはイケる。たとえ今の状況が黒でも、オセロのように白に変わっていくと確信できました。実際、その後のオーディションでもすごくウケましたね」
関東ローカルの『お笑い登龍門』(フジテレビ系)、そして『笑いの金メダル』(テレビ朝日系)などのバラエティ番組への出演によって、パッション屋良の知名度と人気は全国区に。「やらやらバンバン」は”真似をすると危険”と、一部小学校で禁止令が出たほどだ。
「僕としては、そこまで広がったことをありがたいと思う部分もありました。ただ、神戸の医療従事者の方から『心臓が停止してるときであれば効果があるが、通常時に胸を叩くのはよくない』とお手紙をもらったときは、やっぱり考えましたね」
その頃のブレイクの実感について尋ねると、
「当時、妻から『ひとり暮らしをしているみたい』と言われまして。妻が寝ているときに帰宅して、妻が起きる前に家を出ていましたから。休みなんてなかったですね。でも、昔の自分が思い描いていたポジションに立てているわけだから、別に休みなんていらないと思っていました。まだ30歳くらいでしたし」
やっぱり、当時はかなりのお金をつかって生活していたのだろうか?
「僕は比較的倹約家なので、派手にお金をつかったりはしてないです。ただ1か月の飲食代が100万円を超えていたときはびっくりしたし、マズイと思いました。ありがたい環境だけど、これがずっと続くかはわからないという不安もあったので。
最高月収ですか? 同時期にブレイクしたヒロシさんや長州小力さんなんかは1000万円超えって言われましたけど、僕はその半分くらい。だから、あのクラスに比べるとインパクトはないと思います。ただ『日本の税金って、こんなに取られるのか!』とは思いましたけど(笑)」
屋良が不安を感じていたとおり、ブレイク後、仕事は緩やかに減っていった。妻は地元の同級生。第二子が誕生したタイミングで、妻子は沖縄に居を移し、屋良は2年ほど東京で単身赴任状態だったという。
「仕事も家庭も中途半端になっていたときでした。東日本大震災もあり、ちょうど2人目の子が産まれるタイミングで。仕事がない、指名をしてもらえないのであれば、自分で仕事を生み出せる環境を作ったほうがいいと考えました。それに、やはり家族と一緒に過ごしたいですし」
こうして屋良は2011年に沖縄に拠点を移し、個人事務所『オフィスパッション』を設立。
「自分で営業を取ったり、番組プロデュース業をやったり。そんな中で、手伝ってもらっていた人に会社の資金を持ち逃げされてしまって、1000万円の借金を背負いました。今思えば、何も知らないまま会社を立ち上げてしまった自分の勉強不足です。規模は違えど、『芸能人あるある』なんじゃないですかね」
その返済はすでに終えているのだろうか?
「いや、むしろ増えています(笑)。今は、パーソナルジム『Passion's Fitness PPP』を名護と那覇に2店舗構えているので、その事業資金などを銀行さんからお借りしています。あと、子どもも4人いますし」

