農業は人類に間違いなく豊かさをもたらした。しかしその発展の裏側では、感染症、糖尿病、飢饉といった“負の連鎖”も同時に拡大していた事実を知っているだろうか。飢饉は過去の出来事ではなく、今も進行中であると主張する生物学シニアエディターが“食と健康の危機”を読み解く。
『ホモ・サピエンス30万年、栄光と破滅の物語 人類帝国衰亡史』より一部抜粋、再編集してお届けする。〈全3回のうち1回目〉
急増した感染症
人と動物のあいだで感染が広がるタイプの病気が本格的に広まったのは、人々が長期間にわたって、密集した定住地で暮らすようになってからのことだった。
ニワトリやブタといった家畜とともに生活するようになったことで、人と動物との距離が一気に縮まった。さらに、衛生環境が整っていなかったこと、そして人間の周囲で繁殖しやすい害獣が増えたことも重なって、新たなタイプの感染症が次々と発生する土壌ができあがったのである。
ウシに由来する結核、ネズミとノミを介して広がるペスト、家禽に由来するインフルエンザなど、さまざまな感染症の出現は、農耕の始まりと切り離せない。
とりわけ、動物由来の呼吸器系疾患が人間に広がりうるという事実は、今や地球上の誰もが知るところとなった――私はこの原稿を、COVID‒19(新型コロナウイルス感染症)のパンデミックが続く中で執筆している。
このウイルスの発生源については今も議論があるものの、多くの科学者は、動物との直接的な接触を通じて人に感染したと考えている。感染源となったのは家畜ではなく野生動物だった可能性もある。
一方で、あまり報道されないもうひとつのパンデミックとして「鳥インフルエンザ」がある。これは世界中の家禽に広がっており、すでにウシへの感染も確認されている。ウシのあいだでは乳を通じて感染が広がっており、人間への感染例はまだ限られているが、感染すれば命に関わることもある。
奇妙なことに、飢饉や疫病を従えてやってきた農耕の登場は、人間の数を減らすどころか、人口をさらに増やした。狩猟採集民の女性は間隔をあけて子どもを産む。次の妊娠の前にひとり目の子どもの授乳期間を終えるのが一般的だった。
ところが農耕が始まると、離乳の時期が早まり、そのぶん妊娠の頻度も高くなり、より短いサイクルでより多くの子どもが生まれるようになった。死亡率が高くなっても、それを上回るスピードで人口が増えていったのだ。
青銅器時代や鉄器時代の遺跡から出土した小さな注ぎ口のついた器には、乳児がウシやヒツジなど反芻動物の乳を飲んでいたことを示す証拠が残っている。そして、乳児だけでなく、大人も同じように乳を飲むようになっていった。
だがこれは、冷静に考えればおかしな話である。というのも、ごく最近まで、大人の人間は乳に含まれる糖分ラクトースをうまく消化できなかったからだ。実際、今でもラクトース不耐症の成人は少なくない。
農耕と糖尿病の深い関係
それでも、農耕が広がったあとには、ラクトースを消化できる能力が人々のあいだに広まり始めた。最初は、飢饉のときに命をつなぐ「非常食」として乳を飲んでいた人々が、次第に乳製品の利用を広げていった。遊牧民のあいだでは、家畜の乳、さらにはウマの乳さえ絞る習慣が、かなり早い時期から見られるようになる。
大人になっても乳を飲めるという能力は、農耕によって人類の身体そのものが進化したことを物語っている。農耕は単に病気や栄養不良をもたらしただけではなく、人類そのものを変えてしまったのだ。
こうした進化は、現代病と思われがちなもうひとつの病にも表れている。それが肥満と、それに関連する2型糖尿病の流行である。
狩猟採集民の食事は実に多様だが、彼らは常に食糧不足と隣り合わせの生活をしていたため、食べ物が豊富に手に入るときには、特にカロリーの高いものを見つければ、できるだけたくさん食べようとする傾向があった。
私たちはいま、ジャレド・ダイアモンドが指摘するように、「スーパーで狩りをする」時代に生きており、飽食に慣れている。だがその一方で、人類は「食べられるときに食べておく」という祖先譲りの本能を、なお体に抱えている。
ところが、食べ物がいつでも豊富にある現代では、特にデンプンや糖分に富んだ食事が続くと(農耕によって生まれた作物は、おおむね野生の植物より糖質が多い)、人間の身体は「代謝症候群(メタボリックシンドローム)」と呼ばれる状態に陥りやすくなる。血液中のブドウ糖濃度をうまく調節できなくなり、2型糖尿病へとつながるのだ。
ただし、現代社会においても、2型糖尿病の発症率には人種や民族による差がある。たとえば、ヨーロッパ系の人々と比べて、太平洋諸島の先住民などでは、はるかに高い割合で発症が見られる。
ダイアモンドはこれを進化の結果と捉える。ヨーロッパの人々は、かなり以前にすでに糖質の多い農耕食に移行していたため、その過程で糖尿病にかかりやすい体質を持った人々が子孫を残せずに亡くなり、その遺伝子が自然に淘汰されてきたのだという。
一方で、西洋型の食生活に比較的最近になって移行した集団では、いまだ「糖尿病の流行」の渦中にある。
この進化の影響は、今もなお私たちの身近にある。たとえば、太平洋の小さな島国ナウル共和国では、世界でも有数の高い割合でメタボリックシンドロームが見られる。1987年の調査によれば、ナウル人の約4人に1人(24パーセント)が2型糖尿病を患っていたという。
しかし注目すべきは、1975~1976年の調査で21・1パーセントだった耐糖能異常(糖尿病の前段階)の割合が、1987年には8・7パーセントにまで下がっていた点だ。
この調査の著者たちは、2型糖尿病を患う人はそうでない人に比べて死亡率が高く、出生率が低いため、糖尿病の傾向を持つナウル人が遺伝的に淘汰されつつある可能性があると指摘している。
これは、ヨーロッパで数100年前にすでに起きたことと同じ現象かもしれない。農耕の始まりから一万年が経った今も、カロリーと糖分に富んだ食生活への転換がもたらした影響は続いているのだ。

