妻の裏切りをきっかけに、モラハラを繰り返すようになってしまった男性。その背景には、本人も気づかない「毒親の連鎖」があったという。いったい彼と両親とのあいだに何があったのか。
『「毒親の連鎖」は止められる トラウマの呪縛を克服した10人のケース』より、一部抜粋、再構成してお届けする。
「どうしてわかってくれないんだ!」
関東在住の中村カズノリさん(44歳)は、27歳のときに友だちの紹介で3歳年下の女性と知り合い、28歳で入籍。ところが入籍から2年目、結婚式を挙げた直後に、妻の不倫が発覚した。不倫相手は中村さんも顔馴染みの男性で、近所に住んでいた中村さんと妻の共通の友人が教えてくれた。
「当時は仕事が忙しくて妻と会話らしい会話もままならず、たまのコミュニケーションも上手くできていなかったという負い目はありました。でも、結婚式を挙げた直後のタイミングでの不倫発覚は、私にとってものすごくショックな出来事でした……」
2人は何度も話し合い、妻の方にも事情があったということを理解した中村さんは、今回の不倫については水に流し、「またお互い信用を構築し直していこう」というところに落ち着いた。
しかし、「不倫された」という事実はなかなか忘れられるものではない。つらい気持ちが上手く消化できず、それは日に日に大きくなっていった。
それからだった。
気がつけば中村さんは、「モラルハラスメント」をするようになってしまっていた。
「世間一般で『モラハラ』と呼ばれる行為には様々なものがありますが、私は、無視、大声で怒鳴る、物に当たる、相手の価値観や能力の否定、相手に自分が悪いと思わせる……といった行為をしてしまっていました」
民法では不貞行為の時効は3年。これを過ぎると不倫相手への慰謝料の請求は難しくなる。だから逆に、「3年経ったら本当の意味で水に流せる」。そんなことを考えていたと中村さんは言う。
そして不倫発覚からあと少しで3年という頃、運命の日は訪れた。中村さんは妻との意見の食い違いから口論になり、爆発。
「どうしてわかってくれないんだ!!!!」
あらん限りの声で叫び、鬼の形相で本棚の本をぶちまけていた。我に返ったときには既に遅く、怯えきった妻はそのまま実家に帰ってしまう。残された中村さんは激しい後悔に襲われた。
数日後、妻に連絡すると、妻は地域の女性センターに相談に行ったという。「DV加害者プログラム」というものを紹介されたため、「そこに通ってほしい」と言う。
中村さんは藁にもすがる思いで、勧められた「DV加害者プログラム」に通い始めた。それは、中村さんがモラルハラスメントをしてしまう一因が自分の原家族(生まれ育った家族)にあることを知るきっかけとなる第一歩だった――。
暴力が日常の家庭
北陸地方出身の中村さん。父親は設備設計の仕事をする会社員で、母親は時々パートに出る専業主婦だった。
「両親の詳しい馴れ初めはわかりませんが、20代半ばで結婚していると思います。幼少の頃の記憶で最も強く印象に残っているのは、父親が玄関先で母親に対して『出て行け!』と怒鳴りながら何度も母の頬を殴っていた記憶です。確か私がほんの2~3歳くらいの頃だったと思います」
今でこそ「面前DV(子どもの前でDVが行われること)」だと分かるが、当時2~3歳の中村さんには知るすべもなく、「なんだかわからないけど怖い」と感じつつも、「きっとどこにでもあること、なんでもないようなこと」と思おうとしたという。
父親による母親への暴力は頻繁にあったようだ。中でも中村さんが小学生の頃には、父親が母親を何度も何度も殴ったり張り倒したりしており、時には母親が泣きながら台所に行き、包丁を手に自殺を図ろうとするが、父親に包丁を取り上げられ、また何度も何度も殴られる……ということもあったという。
「父に掴まれて動けない母は泣きながら私に、母の実家に『今すぐ電話して』と懇願しますが、父からは『そんなことをしたらただでは済まさない』と脅され、結局何もできませんでした。その直後、母は私を連れて家を出たのですが、程なくしてまた家に戻りました。まだ幼かった私には、戻った理由はわかりませんでした」
DV(ドメスティック・バイオレンス)とは、配偶者、恋人などの親密な関係にある(もしくは親密な関係であった)パートナーから繰り返される暴力のことだ。一方モラルハラスメントは、精神的暴力が主な手段となっているDVを指す。
中村家では、父親から母親への身体的暴力だけでなく、精神的暴力も日常的に行われていた。そしてあろうことか、父親から中村さんへ、母親から中村さんへの暴力も頻繁に行われていたのだ。
例えば5~6歳の頃、中村さんは父親からグローブとボール(硬球)を買ってもらった。父親は「キャッチボールをやろう」と言う。
しかしまだ幼い中村さんは、父親が投げるボールが捕れない。すると捕れない度に酷く罵られ、顔や体にボールを当てられる。痛さのあまり泣き出すと、「こんなボール痛くないだろ!」と痛みさえ否定される。中村さんは父親とのキャッチボールを、「デッドキャッチボール」と呼んだ。
また、中村さんにとって食事の時間は、楽しい時間ではなかった。食事中は、両親から責められたり怒られたりした記憶ばかりがあるからだ。中村さんにとっては、食事の時間にテレビが点いていたことが唯一の救いだった。テレビに集中していれば両親と会話せずに済む。
ところが、中村さんがテレビに集中しているのが面白くなかったのか、母親は突然中村さんの後ろから手で目隠しをし、「今日の献立を全部言え」と迫ってくることが度々あり、間違えば責められたり、酷い時は殴られた。泣き出せば母親から、「お前は男の癖によく泣くから、将来は女優になれるな!」と嘲笑。
またある時は、父親から「食事中にテレビの方を向くな」と言われた。座る位置のせいで、首を90度近く曲げないとテレビが見えなかったため、その姿勢が気に入らなかったようだ。
父親は、テレビの真正面に座っている。思わず「お父さんは首を曲げなくてもいいからずるい」と口にすると、父親は突然激昂。食事中の中村さんの首を掴んで吊り上げ、何度も殴られた。
「こんなことがしょっちゅうあったもんですから、食事というもの自体が嫌いになりました。食事にトラウマがあると、当然食事の量も少なくなり、私はずっとやせっぽちでした。親からは事あるごとに『男の癖に痩せすぎ、肩がない』とか『情けない身体』などと言われたものです」
服装についても、自分で選んだ服の組み合わせを、「センスがない」と一蹴され、「お前は笑顔が不気味だ」などと言われて深く傷ついた。
それでも小学校高学年になると、少しずつ身体が大きくなり、体力もつく。母親に殴られるときに避けたり、あまり泣かないようになっていく。ある日、母親から殴られ、気丈に睨み返したところ、母親は半笑いを浮かべた直後に拳を握ってボクサーのような構えを取り、「やるのか? おら。まだ負けんぞ?」と言い放った。
「それを見たとき、私は酷く怯えてしまいましたが、同時に、『もう少し大きくなって母より力もついたら、絶対に仕返ししてやろう』と心に決めました」

