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6歳で一家離散、父の再婚で借金苦、祝福されない結婚…毒親の影をひきずる女性が招いた結婚10年目の崩壊「夫のスマホに裸の写真」

6歳で一家離散、父の再婚で借金苦、祝福されない結婚…毒親の影をひきずる女性が招いた結婚10年目の崩壊「夫のスマホに裸の写真」

父親の再婚で生活が破綻

父方の祖父母は厳しい人だった。小さなアパートを持っていた祖父は、その賃料で年に1回、親戚一同で1~2泊の旅行を企画。しかし日々の暮らしは、水道や電気、ガスに至るまで厳しく倹約していた。

「あなたのお母さんはお金にルーズな人だった。計算して暮らせない人。お母さんの借金はほとんどうちが返したんだからね、覚えておいてほしい。あなたも借金だけは絶対にしないでよ、人に迷惑かけるような生き方は絶対にダメ」

祖母はことあるごとに佐伯さんの母親を貶めた。佐伯さんは、欲しいものを買ってもらえず、着たい服を着せてもらえず、祖父母や父親から愛されているという実感がなく、自分の家という感覚がいまいち湧かないまま、寂しい幼少期を過ごした。

「そのせいか、『早く自分で働いて、好きなものを買いたい! 食べたい! 1人で暮らしたい!』とずっと思っていました。たまたま看護師の叔母がいて、奨学金制度が整っていることや給与が安定していることを聞いたのがきっかけで、看護師を目指すようになりました」

佐伯さんが中学校に上がった頃、父親が再婚した。

佐伯さんと父親は祖父母の家を出て、再婚相手とその3歳の息子と4人で暮らし始めた。しかしすぐに生活が破綻する。なぜなら継母は、佐伯さんの母親と比較にならないほどお金にルーズな人だったからだ。

「毎日消費者金融の借金取りが家を訪ねてきたり、21時まで返済催促の電話が鳴り続けるなど、落ち着いて暮らせない日々が続きました。継母は私に、『あんたは姪、今は叔母はいないと言いなさい』と指示して自分は隠れ、借金取りへの応対を押し付けられました。この頃、電話が鳴らないように、電話線を抜くことを覚えたほどです。私は継母に『暗い子』などと言って邪険にされ、ほとんど会話はありませんでした」

佐伯さんは家にいたくない気持ちから、高校に上がるとアルバイトを始め、22時まで働いた。浪費癖のある継母に手を焼いた父親は、佐伯さんが高校1年の夏に再び離婚。その後は父親がアパートを借り、父娘2人暮らしとなった。

看護師を目指していた佐伯さんは、「地元の看護学校へ入学すればいい」と思っていた。だが、高校の教師に「これからは看護も大学の時代。様々な人と接する看護の仕事ならなおさら、広い一般教養を学ぶべき」と助言され、その時交際していた彼氏の影響もあり、東京の短大に行きたいと思うように。

ところが、倹約第一の祖父母は大反対。しかし意外にも父親が、「自分の人生だから好きにしなさい。反対して一生恨まれるのは嫌だから」と言って許してくれた。ただし、仕送りは月4万。あとは奨学金(2万円)とアルバイトでまかなうという条件だった。

「入学後に分かったことですが、公立の大学だったので、年収の区分けで授業料は無料になることを知り、本当に助かりました。他に教科書代が年間10万ほどかかりましたが、これは祖父が払ってくれました。部屋を借りるお金は、高校生の頃にアルバイトで貯めた120万円でまかなうことができました」

大学を卒業後、佐伯さんは都内の病院に就職。看護師として働き始めた。そして21歳の時、友だちと行ったクラブで男性から声をかけられ、交際に発展。男性は車のエンジニアをしており、佐伯さんより5歳年上だった。

やがて佐伯さんが24歳の時に妊娠がわかると、「結婚しよう」ということに。ところが男性はリストラに遭い、無職になってしまう。

東京で出会った2人だが、偶然、2人とも東北の同じ県出身で、生まれ育ったのは隣の市だった。そこで2人は故郷に戻って結婚生活を送ることを決断。しかし、苦難の道のりはまだ始まったばかりだった。

祝福されない結婚

結婚式には、佐伯さん側の親族は、実の両親と妹しか参列しなかった。

なぜなら、どちらの祖父母も、「相手は無職で、そのうえ授かり婚だなんて恥ずかしい!」と言い、特に父方の祖父母は、「東京まで行ったのに子どもができるとは何事か!」「しかも、自分の仕事を投げ出して地元に帰ってくるのはおかしい!」「なおかつ相手はリストラで無職だと?」と大反対し、「それでも結婚するなら絶縁だ!」と激怒の末、絶縁された。

一方で、小学校の時に生き別れた母と妹との親交は、ある時をきっかけに復活し、続いていた。

「私が15歳のとき、継母とうまくいっていなかった時期に『もう生きていたくない』と思い詰めて、『妹と母に会いたい!』と強く思い、手紙を書いたことがきっかけで、9年ぶりに母と妹と再会することができました。それ以降、毎週のように会ったり電話をしたり、手紙のやり取りをしたりしていました。私の結婚式では父と母、父と妹は18年ぶりの再会です。でも、妹は祝福してくれましたが、両親は2人ともいい顔はしていませんでした」

佐伯さんは出産直前まで東京で看護師として働き、産休中に東北へ帰ってきて出産。夫は佐伯さんの妊娠が発覚した後にリストラに遭い、無職になっている。幸い夫の父親は東北で小さな工場を経営していたため、夫はそこで働くことになった。
 

そのため佐伯さんは出産後、勤めていた東京の病院を退職。夫とともに東北に戻ると、第1子の育児をしながら就職活動と保育園探しを行い、出産から11か月で看護師の仕事に復帰する。

その3年後、第2子を妊娠し、翌年出産。しばらくして、「4歳の息子と生まれたばかりの娘を育てながら、夜勤のある看護師の仕事を続けるのは難しいのではないか」と悩んだ佐伯さんは、退職を決意し、専業主婦になった。

夫は子どもとよく遊んでくれた。家にいることより外に遊びに出ることが好きで、休日の度に車で、夏は海やキャンプ、冬は雪遊びやスキーなどに出かけた。

「夫は家事は一切しませんが、私も『これをしてほしい』などと頼んだことはなかったと思います。夫は毎週遊びに行きたがる人で、私は計画的な旅行は好きですが、思いつきで出かけるのは嫌でした。基本的に節約・貯金の考えで、日々の暮らしを丁寧にしたいんです。子どもの教育に関しても、夫は『子ども自身が好きなことを見つけて進めば良い』という考えで、私は『お勉強や習い事をさせて可能性を広げて、導いてあげたい』『大学は当然。理系なら院まで』という考え。全くといっていいほど考え方が合いませんでしたが、わかったのは結婚してから。結婚前は、無意識に私が夫に合わせていたのかもしれません……」

結婚して子どもができると、お金の使い方や子どもの教育観などの違いから、喧嘩が絶えなくなった。

「息子が5歳になった時、誕生日プレゼントに夫が2万円のラジコンを買ってきた時や、車を買い換えると言って、一番高いグレードのものを選んだ時は、大喧嘩になりました」

しかし一方で、佐伯さん自身も極端だった。家で飲むビールや飲み会代は別で、夫のお小遣いを2万円とし、2人の子どもたちの習い事に、1か月10万円使っていた頃もあったという。

「子どもたちが小学校から高校くらいまでの頃の私は、『勉強しなさい!』『早くやりなさい!』が口癖でした。やることをやらないと、ついイライラして怒ってしまう。心のどこかで『ちゃんとしてほしい』『できて当たり前』と思っていたんだと思います。でも、それって私の理想を子どもに押しつけていただけでした」

それは夫に対しても同じだった。「なんで○○してくれないの?」「どうして私ばっかり?」と不満をぶつけてばかり。いつしか夫と会話する時は、普通にしていても、まるで責めているようなキツイ口調になっていた。

文/旦木瑞穂

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