
2019年7月に、ステージ上でいじめを告発した動画がバズり、アイドルを引退した「小野寺ポプコ」。その後、早稲田大学を卒業、カリフォルニア大学バークレー校へ留学し、卒業生代表としてスピーチをしたことも話題だ。物議を醸したあの日から一体どんな未来に繋がっていったのか。現在、onodelaとして活動する彼女が自身の言葉で書き綴るエッセイ「アナーキーアイドル」。約1年の休止を経て復活した連載第9回は、大学卒業後、フランスの料理学校に行った話についてお届けします。
■#9 大学卒業後、フランスの料理学校に行った話
2022年8月、単位取得のミスにより半年間の留年を経て、ようやくお世話になっていた早稲田大学を卒業することができた。卒業後はアメリカの大学院へ進学する予定だったが、プログラムの開始は翌年3月。そのため、それまでの期間にはまとまった自由な時間があった。
当初の予定では、大好きなタイ料理や現地の風景に惹かれて、大学院プログラムが始まるまでの間、タイに長期滞在し、進学前の最後の長期休暇を満喫するつもりだった。ところが、思いがけない出会いによって、その計画は少し変わることになった。
友人のホームパーティーで、当時一時帰国中だったフランス・パリの大学に留学している女の子と知り合った。多国籍な参加者が集まるその場では英語が共通語で、彼女の英語には日本語とフランス語の訛りが混ざっており、その独特な響きに思わず聞き惚れてしまった。
二人とも海外経験が豊富だったこともあり、すぐに意気投合して打ち解けた。彼女から聞くフランスでの生活の話は、食へのこだわりや丁寧な暮らしに対する姿勢が印象的で、わたしは深く感銘を受けた。
実は、わたし自身も昔からフランスに関して、あることに密かに興味を抱いていた。ただ、それはあまりにも非現実的で、誰にも話したことがなかった。けれどある日、表参道のカフェで彼女とおしゃべりをしていたとき、ふと気が緩み、つい口にしてしまった。
「わたし、ずっとフランスでプロの料理人から料理を学んでみたかったの」
きっと笑われるだろうと思っていたが、彼女は「え、めっちゃいいじゃん!行きなよ!一緒にフランス行けたら超楽しそう!」と、意外なほど明るい反応を返してくれた。
「いやいや、そんな簡単に行けるわけないでしょ」と戸惑うと、彼女はフランスの専門学校の申し込み方法や学生ビザの取得手続きなど、一つひとつ丁寧に教えてくれた。そして「行けなくはないよ」と真剣な表情で背中を押してくれた。
この出来事をきっかけに、「自分はずっと、両親が敷いてくれたレールの上を走ってきただけなのではないか」という疑問を抱いていたわたしにとって、それを打ち破る絶好のチャンスかもしれないと思うようになっていった。
フランスに料理を学びに行けないかと親に相談したところ、案の定、驚かれた。とはいえ、タイでのバカンスは許可をもらっていたため、「料理学校の学費は自分で負担する」という条件で交渉した結果、最終的に行き先の変更を認めてもらえた。
まさか昔の夢が現実になりそうだなんて——そう思うと、胸が高鳴り、ワクワクが止まらなかった.
さっそくネットで通えそうな料理学校を探し始め、見つけたのは南フランス、地中海にほど近い小さな町にある学校だった。パリの喧騒とは違い、ゆったりとした時間が流れる穏やかな土地にあるその学校は、まるで自然の中で過ごすことが好きな自分を引き寄せているかのように感じられた。
授業は英語で行われ、フランス語の語学クラスも併設されており、フランス初心者でも安心して学べる環境が整っていた。まるで「あなたにぴったりだよ」と言われているような気がした。
さらに、この学校は地元のリゾートと提携しており、学生たちは海辺まで徒歩10分のリゾートマンションに滞在することができる。真っ白な地中海スタイルのリゾートと透明で青い海が、わたしの心を丸掴みにした。これ以上迷う必要はないと感じ、すぐに数ヶ月後の冬に入学する3ヶ月コースを申し込んだ。
少し時間が経った頃、心配していた留学ビザも無事に下り、フランスへ行けることが正式に決まった。背中を押してくれた友人にその報告をすると、心から喜んでくれて、「フランスでわからないことがあったらいつでも聞いて」とあたたかく応援してくれた。

年明けの1月。15時間のフライトでパリに到着し、さらに鉄道で4時間。駅での乗り換えではフランス語の案内が理解できず、右往左往しながら、ようやく目的地であるアグドにたどり着いた。ギリシャ人によって築かれたという、火山岩に囲まれた街であり、フランス最古の街のひとつでもある。
駅に着いたのはすでに深夜だった。エスカレーターがない構内で、30キロのキャリーバッグを引きずりながら階段を上り下りしていると、ずっと都会に住んでいた自分には、なかなかハードな生活になりそうだなとつい思ってしまった。
しかも翌日は、いよいよ料理学校の初日だったのに、1時間に1本しかないバスの時刻を読み違え、目の前で逃してしまうことに。バス停には見知らぬ誰かが一人だけ。思い切って声をかけてみると、なんと同じ学校の生徒だった。一緒にウーバーを呼び、なんとか授業開始に間に合うことができた。
学校は思ったよりも小さく、二階建ての建物がひとつ。その中に、レストランさながらのプロフェッショナルな広い厨房が二つ備えられている。クラスの男女比はほぼ半々。それに、わたしのような料理好きの素人は少なく、ほとんどがレストラン勤務経験者だった。それでも、1日目は基礎の卵料理から始まるので、気を引き締めて取り組むことができた。
午前中のクイジーンクラス(料理専門のクラス)で作った料理は、授業後に実食していいということで食べてみたところ、味はしっかり憧れていたフレンチのようだった。さらに、ベーキングクラス(デザート専門のクラス)の仲間が余ったスイーツを分けてくれて、初日からコース料理のように豪華な昼食になって、なんだか幸先のいいスタートを切れた気がした。

田舎で不便なところが多いこの町だけれど、壮大な景色はどこにも引けを取らなかった。ある日の放課後、先輩の生徒に誘われて、街はずれの岬、キャプ・ダグドを訪れた。砂の小道を抜けた先に広がっていたのは、果てしなく青く、静かにうねる地中海。
冷たい風に吹かれながら、波が砂浜に打ち寄せ、白い飛沫を立てては引いていく。その音は心地よいリズムとなって耳に残り、どこまでも続く水平線と夕焼けのオレンジがとけ合う光景に、思わず息を呑んだ。
深く息を吸い込むと、肺の奥に塩と磯の香りがしみこんでいくようだった。
「この景色、絵葉書みたいでしょう?」
先輩が笑顔でそう言いかけると、わたしは思わず深く頷いていた。
先輩から聞いた話によると、アグドは観光業が主産業で、観光シーズンが終わる冬には町全体が静まり返り、ほとんどの店が閉まってしまうそうだ。
「だから、学校の隣にあるスーパーで食料を買い溜めしておかないと、リゾートに戻ったときにはたった一本のコーラさえ手に入らないこともあるよ」と教えてくれた。
そんな、どこか世間から隔絶されたような環境だったが、真冬の海辺を散歩することがすっかり好きになっていた。波の音だけが耳に届き、海風がそっと頬を撫でる。冷たい空気に包まれながらも、その瞬間だけは、これまで経験したことのないような静けさと安らぎを感じることができた。
週末の趣味は、鉄道乗り放題パスを使って、周辺地域を開拓することだった。
隣町のセットで開かれる朝市には、地元ならではの食材があふれ、その活気に圧倒された。掘りたてのトリュフが、まるで拳ほどの大きさでごろごろと並んでいる。有名なジラルドー牡蠣の産地でもあり、「緑の宝石」とも称されるこの牡蠣にずっと惹かれていたわたしは、ついに4キロ、40個ほど入った詰め合わせを手に入れた。無心で殻を開け、一つひとつ味わいながら、気づけば最後の一粒まで完食していた。
全く知識のない異国だからこそ、小さな旅にもトラブルはつきものだった。まるで毎回、ちょっとした冒険だ。ある日、ピンクの塩湖を目指して、片道6時間かかる強行日帰り旅に出たが、行きのバスを間違え、現地滞在時間はわずか2分。しかも塩湖は閉鎖中で、ゲートから見えた湖の色は普通の青色だった。帰りのバスは目の前で発車し、人生初のヒッチハイクに挑戦するも失敗。ようやく1時間後にウーバーが来て、なんとか帰りの電車に間に合った。不運続きの一日だったけれど、帰りの車窓から、ほんの小さな、けれどたしかにピンク色の池が見えた。それだけで、この旅に挑んだ価値があったと思った。
家に戻って、旅先で撮った写真をパリに戻った友人に送ると、「すごくきれいだね!行き帰り、大丈夫だった?」と、やさしいメッセージが返ってきた。同じ街にはいなくても、同じ国に友人がいるというだけで、ずいぶん心が強くなる。

プログラムも中盤に差し掛かり、だんだん学校の環境が掴めてきた。
並行して受けていたフランス語の授業では無双し、フランス語の先生にたくさん褒めてもらった。テストもいつも最高点。第二、第三言語を習得してきた経験もあり、語学の学習のコツはすでに身についていた。
一方で、クイジーンクラスでは様子が違った。手先は全く器用ではなく、料理の基本である切り込みひとつ取っても、仕上がりはどこか雑で不揃いだった。加えて、プロの厨房は、教室のような「全員平等で意見を述べ合う」リベラルな空間ではなく、年功序列と実力主義の世界。ペア、チームリーダー、当直など役割分担が多く、集団行動が少し苦手な自分には難しい面もあった。創作料理なのに、ユニークさより基礎重視。イカ墨でお皿に文字を書くような実験的なことをしても、先生には白い目で見られるだけだった。結果、クイジーンクラスでは下位にとどまっていた。
下位だからか、少し意地悪な態度を取ってくるクラスメイトもいた。アメリカ人の女性で、なぜかわたしにだけ厳しかった。「切り方違うよ」と言われるのは理解できたが、「オーブンをじっと見ていないで」と指示されたときは、さすがに戸惑った。他のクラスメイトにはそんな態度を取らないのに、学校にアジア人がほとんどいない状況で差別的に見られるのは避けたかった。
昔、アイドル活動をしていた頃、嫌な気持ちをたくさん溜め込み、最後に爆発してしまった経験がある。その失敗から学んだのは、違和感を覚えたら、早めに礼儀をもって相手に伝えることだ。3日目、彼女がまた理不尽な指摘をしてきたとき、わたしは静かにこう返した。
「Can you mind your own business?(放っておいてくれませんか?)」
彼女は返す言葉を見つけられなかったのか、黙って立ち去った。それ以来、余計な干渉はなくなり、日々の授業に集中できるようになった。
そうして、気づけば、たまに降る南仏の雪を何度か見送りながら、三ヶ月の時間が過ぎていた。三ヶ月間、先生はわたしが素人であることを言い訳にせず、プロと同じ目線で厳しく指導してくれた。最初は怖かったが、少しずつ自分の料理が形になり、技術が磨かれていく感覚は何より嬉しく、プログラムはあっという間に終わった。
今は、料理を作るのが一番の趣味・特技となった。気づけば「料理が上手な人」と評判になり、ディナー会を開けば、たくさんの友人が料理を楽しみに集まってくれる。
もともと、シェフという職業にも憧れがあった。けれど、この経験を通して、厨房の上下関係や職人の世界の厳しさを知り、現実に触れたことで、プロのキッチンで働く夢には自然と区切りをつけた。その代わりに、自宅で情熱を持って腕を磨く道を選んだ。
それでも、料理学校で大人数での研修を受け、自分が苦手としていた集団行動にもあえて挑戦し、試行錯誤してみたのはよかったと思う。苦手な分野で成長したというよりは、自分に合う方向を見つけることも大切だと学んだ。
料理学校のクラスメイトの中でも特に印象に残っているのは、弁護士の兄を持ち、自分は料理人を目指していた青年。彼が言った言葉が、今でも心に残っている。
「食卓を囲むことで人々が集まり、心が通い合う瞬間を作れるから、料理をするのが好きなんだ」
わたしの手料理を楽しんでいる友達の笑顔を見ると、いつもこの言葉が頭に浮かぶ。大切に作った一皿が、楽しい時間を生み出し、人との距離をぐっと縮めてくれる。
こうした経験から、今はお店を開くことはできないけれど、もっと多くの人と料理でつながりたい――そんな思いから新たな目標ができた。昨年からSNSに料理の写真や動画を投稿し始めると、30万回以上再生されたショート動画もあり、予想以上の反響にとても嬉しかった。現在はキッチンをリノベーション中のため一時休止しているが、近いうちに、味は伝えきれなくても、自分の個性を活かし、見るだけでワクワクするような料理動画を作りたい。SNSも料理も好きだからこそ、時間や場所を超えて楽しめる「料理」を届けたいと思っている。
あのとき、ふと「フランスで料理を学びたいな」と思った自分は、まさかここまで人生の可能性が広がるなんて、きっと想像もしていなかっただろう。そして何より、あの一歩を踏み出すきっかけをくれた友人には、深く感謝している。
彼女は今もパリに暮らしていて、会う機会こそ少ないものの、よく現地の最新の食事情を教えてくれる。わたしにとって、本当に大切で貴重な友人だ。


