最新エンタメ情報が満載! Merkystyle マーキースタイル
地獄の戦国籠城戦! 信長が「2万人焼殺」、秀吉が「人肉を食わせた」恐怖の戦術

地獄の戦国籠城戦! 信長が「2万人焼殺」、秀吉が「人肉を食わせた」恐怖の戦術

豊臣秀吉

全国各地で戦乱が相次ぎ、日本の歴史上最も長く不安定な世相が続いた戦国時代。数えきれない人命が戦場で失われたが、中でも生きる希望を絶たれた籠城戦は悲惨の極みだった。ここでは、歴史評論家たちの間でも語り草となっている壊滅的な籠城戦をお伝えしよう。

2万人の門徒を焼殺!

●長島侵攻(1570~1574年/伊勢国)
尾張国と伊勢国の境に位置し、木曽川、揖斐川、長良川の中洲にあたる長島。織田信長に徹底抗戦した本願寺顕如の3代前の宗主、蓮如の六男・蓮淳が文亀元年(1501年)ごろにこの地に入って周辺の国人領主を取り込み、以降は本願寺の門徒が自治する大勢力圏を築いていた。

永禄12年(1569年)、伊勢をほぼ支配下に置いた信長は手つかずの長島攻略に乗り出したが、一向一揆勢が一斉蜂起。逆に尾張の小木江城を攻めて信長の弟・信興を自害に追い込むなど、信長にとって見過ごせぬ状況となった。

元亀2年(1571年)、信長は5万の兵で長島攻略に取りかかったが、土地がぬかるみ、道も狭い一帯に手を焼き、弓や鉄砲を雨あられのごとく見舞われて屈辱的な敗退。翌々年、今度は8万の大軍で襲い掛かったが、それでも本願寺勢を駆逐できなかった。

2度の失敗で怒り心頭に達した信長は、ついに12万の軍容で海から水軍に攻めさせるなど、過去に例を見ないほど大規模な陣を敷き、周囲の諸城を落としては降伏を求める者たちを長島城へと追い込んでいく。

信長は2万人の門徒が立てこもる長島城を幾重にも囲むと、降伏を申し出た門徒衆を許さず、苛烈な火攻めを決行。城中の飢えた男女およそ全員が焼き殺された。

【関連】大河ドラマ『豊臣兄弟!』に暗雲漂うNHK放送倫理問題

秀吉の“奇策”が地獄を生んだ

●鳥取城の戦い(1581年/因幡国)
因幡一帯を版図に組み込んだ毛利家にとって、鳥取城は中央の織田家に対する最前線の拠点で、ここに重臣の吉川経家を入れて徹底抗戦の構えを見せていた。

毛利家攻略を命じられた織田軍の豊臣秀吉は、前年に播磨の三木城で兵糧攻めを成功させていたこともあり、この鳥取城にも同様の戦法を実施。商人に付近の米を高値で買い占めさせる一方、周辺の農民を城へ追いやり、河川や海上を封鎖して毛利家からの兵糧運搬を阻止させた。

すると、たった数週間で城内は飢餓状態に陥り、家畜や穀物は食い尽くされて餓死者が続出。ついには死者の肉を食らう者まで現れ、城内は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。

これを見た城主の経家は自刃と引き換えに開城を決意。このあまりにもむごい籠城戦は、「鳥取城の渇(かつ)え殺し」といわれている。

●志賀城の戦い(戦い1546年/信濃国)
甲斐や上州と国境を接する信濃佐久郡の完全制圧を目指す武田晴信(のちの信玄)は、抵抗する笠原清繁らが守る志賀城を攻略すべく出陣。志賀城が落ちては危険とみた関東管領・上杉憲政は、上州から碓氷峠を越えて駆け付けたが、武田家の重臣である板垣信方、甘利虎泰、横田高松らによって小田井原で壊滅させられた。

晴信は孤立した志賀城の周囲に討ち取った首級3000ほどを並べ、敵軍の戦意低下を画策。救援の望みが絶たれた城兵の士気は大きく衰え、そこへ晴信が総攻めを仕掛けると、志賀城はようやく陥落した。

これによって城主の清繁ら城兵300あまりが討ち死に、ほかに生け捕りとなった男女は奴隷労働者として、甲斐の黒川金山などへ売り飛ばされた。

週刊実話増刊『禁断の戦国史』より一部抜粋

配信元: 週刊実話WEB

あなたにおすすめ