長い軍事独裁を経て、2011年に悲願の民政移管を果たしたミャンマーで、2021年2月1日に軍事クーデターが起きた。当時、国際開発の仕事でミャンマーのヤンゴンに住んでいた西方ちひろ氏はクーデター後の1年間、民主化闘争の様子をSNSで発信。その投稿を元にした『ミャンマー、優しい市民はなぜ武器を手にしたのか』を上梓した。市民たちの闘い方の変遷を見つめてきた西方ちひろ氏に、現在の思いとミャンマーの実情を聞いた。
私にできる小さなこととして、日本の人たちに伝えたかった
――軍事クーデターが起きたミャンマーをリアルタイムで綴った記録でもある、西方さんの著書『ミャンマー、優しい市民はなぜ武器を手にしたのか』。西方さんご自身が「情報を発信しなければ」と思われたのは、どのようなきっかけだったのでしょうか。
西方ちひろ(以下、同) クーデター直後は、「私は無事です」とSNSに書き込む程度の発信でした。ですが、クーデターによる軍事独裁を止めようと必死で闘う人々の姿を見るうちに、彼らの思いを伝えなければならないと感じるようになりました。本当にすさまじい数の人々が、毎日ミャンマーの国じゅうでデモに参加し、必死に声を上げていたのです。
ミャンマーの人々も、何が起きているか「日本に伝えて」と言っていました。デモの際に掲げられるプラカードも、多くがミャンマー語ではなく、英語で書かれていました。デモの様子が海外に報道されたときに、映像を見た外国の人たちに彼らの思いが伝わるように、英語のメッセージを掲げていたのです。
――デモの目的は、海外の世論に働きかけることでもあったのですね。
はい。軍はクーデターで司法・立法・行政など全ての権力を握っていたので、どれだけの人がデモをしても、それで軍政が倒れるわけではない、ということは皆わかっています。それでも、非暴力で抵抗を続ける自分たちの姿が海外に発信され、国外の人たちが味方になってくれるということに希望を繋いでいたのです。その思いを聞いた以上、私にできる小さなこととして、日本の人たちに伝えなければいけないと思いました。
――ご自身の安全への懸念もあったかと思います。
そうですね。ですから最初は個人のアカウントから発信していましたが、正体を隠した別のアカウントでの発信に切り替えました。テレビの取材を受けた際も、モザイクをかけ、声も変えてもらいました。反軍政運動を応援するような発信がもし軍の目についてしまったら、私だけでなく、私の友人や同僚が軍に拘束されたり嫌がらせを受けたりする危険があると考えたからです。
「自分たちの子供はまた軍政下で生きるのか…」クーデター直後の絶望と強い意志
――クーデターが発生してから数カ月の間に、西方さんご自身の身に危険が及んだことや、街の変化などで最も印象に残っていることは何でしょうか。
クーデターが起こった直後、それまで友人たちから聞いていた軍政時代の話が現実のものとなりました。2011年に民主化してからは、「軍政時代はこんなにひどかった」という話を、過去の悪い思い出として、笑い話のように聞くことの方が多かったんです。それなのに、クーデターによって一夜にして暗黒時代に戻ってしまった。仕事仲間や友達はものすごく怒り、悲しんでいました。
そして、「これから自分たちはどうなってしまうのか」「自分たちの子供はまたあの不自由な軍政下を生きることになるのか」という絶望感と同時に「絶対にそうはさせない」という非常に強い意志を口にしていました。まずそのことに心を打たれました。
――ミャンマーの人々にとって「軍政」は、まだ記憶に新しいものだったのですね。
そうですね。ただ、笑い話にはできても、当然その時の恐怖や憤りは内包されていたのだと思います。民政移管後に教育を受けたような若い世代であっても、親からずっと軍政時代の話を聞いて育っているわけです。語り継がれてきたものが現実になった。これから良くなる一方だと信じていた人たちにとって、非常に衝撃的なことだったと思います。
――その後、大規模なデモが始まりました。
はい。こんなに人がいたのかと思うほどの大群衆のデモが始まりました。しかも、ヤンゴンだけでなく、すごく小さな村や町でも、みんなが「絶対に軍政には戻さない」という思いでデモを続けていたんです。その光景には、ものすごく心を揺さぶられるものがありました。

