開業からまもなく70年を迎える東京都墨田区の「石井サイクル」。そこで店主を務めるのは、103歳の石井誠一さんだ。「生涯現役」を公言する石井さんは1922(大正11)年に東京で生まれ、13歳で自転車修理業に飛び込むも、その2年後には日中戦争が勃発。20歳で中国に出征し、激しい銃撃戦や終戦後の捕虜生活も経験した。
大正から令和まで4つの時代を駆け抜けた石井さんの103年間を振り返る。(前後編の後編)
20歳で中国に出征、「夜間の潜伏戦攻が一番嫌だった」
石井誠一さんは1922(大正11)年に東京・神田で3人兄弟の長男として生まれた。同年に生まれた著名人には、漫画家の水木しげる氏や小説家の瀬戸内寂聴氏などが名を連ねるが、「戦争によって青春時代を潰され、戦地では最前線に送られた」という意味で、たびたび“不運な世代”として呼ばれることも多く、『大正十一年生まれ』という書籍も出版されるほど第二次世界大戦の激動期を生きた象徴的な世代だ。
石井さんも、戦争によって青春時代を潰された一人だった。
幼少期から「自転車をいじるのが大好きだった」という石井さんは、高等小学校を1年で中退し、13歳のときに自転車修理の道に飛び込んだ。住み込みで働きながら順調に技術を習得していったが、その2年後には日中戦争が勃発した。
第二次世界大戦が激化した1943(昭和18)年、20歳で中国に出征。敵軍の補給路を断つべく、夜間に激しい銃撃戦を繰り広げたこともあった。
「夜間の潜伏戦攻が一番嫌だった。『敵が通る』という情報が入ったら先回りして、スコップで穴を掘って土の中に身を屈めたり、山陰に潜んで待つんだよ。敵が通ると、手りゅう弾を投げて攻撃したりもしたもんだ。
銃を撃つと光るから、その光を元にお互い激しい銃撃戦にもなった。やはり訓練と実戦は全く違ったね。余裕なんてこれっぽっちもなかったよ」(石井さん、以下同)
重症を負った中国兵に出くわし、上官の命令の下、とどめを刺したこともあった。
「相手がすでに虫の息でね。私はまだ初年兵だったこともあって、上官から『石井、苦しんでるから楽にしてやれ』って言われたんだ。だから、あおむけに倒れている相手にまたがり、心臓めがけて銃剣の先を上から突き刺したことがある。そしたら、ずぶっと鈍い音がしてね…」
80年以上前の記憶だが、20歳の石井さんにとっては生涯忘れられない記憶として今でも脳にこびりついている。
「“度胸試し”と称して、捕虜を初年兵に殺させるみたいな訓練もあった。それでも上官の命令は絶対なんだ。それは天皇陛下の命令でもある。だからどんな理不尽な目にあっても、上官には逆らえないし、言い訳がきかない。それが軍隊ってもんだ」
1年間の捕虜生活を終え帰国するも…
1945(昭和20)年8月15日、第二次世界大戦は終結し、日本は敗戦国となった。しかし、石井さんの心のうちは、日本が負けた悔しさ以上に、「『ようやく日本に帰れる』という嬉しさのほうがはるかに上回った」という。
「悔しいと思える心の余裕すらなかったのかもしれない。戦争が終わったと聞いたときは『もう厳しい訓練もしなくていいし、命の危険にさらされることもないんだ』と、気が楽になったね。周りの兵隊たちも『日本に帰れるぞ』ってずいぶん喜んでたよ」
敗戦後は中国で捕虜となり、道路の補修作業や落下した橋げたの修繕などに従事した石井さん。終戦から約1年が経った1946(昭和21)年6月、ようやく日本の地に戻ってきたものの、国民からの歓迎ムードなど微塵もなかった。
「誰も『お疲れさま』『ごくろうさん』の一言すらかけてくれない。山口県仙崎港から東京に帰る電車の中で、とある婆さんから『おたくも兵隊さんで帰ってきたんでしょうけど、盗人になったりする人も多くて、評判はあまりよくないよ…』とまで言われたな」
東京に戻ると、辺り一面焼け野原で、見る影もなかった。工場勤務などを経て、再び自転車修理業に戻った石井さんは必死で食いぶちを稼ぐ日々を送った。
「なかなか米が手に入らなくて、芋ばっか食べてたけど、空腹時に食べる芋は本当においしかった。人生で一番おいしいと思った食べ物は、今でもあのときの『芋』だな」

