かつて「徳川埋蔵金発掘プロジェクト」なる特別番組がテレビで放送され、高視聴率を記録したことがあったが、地下に隠された巨万の富の伝承は古くから多くの人々を魅了し続けてきた。今回はそんな埋蔵金伝説の中でも、戦国時代のものを紹介しよう。
在処を示す巻物、絵図は極秘文書扱いに
兵庫県の多田銀銅山には、豊臣秀吉が晩年に、自身の子供のために4億5000万両(現在の価値で約200兆円)もの巨額の財宝を埋蔵したという言い伝えが残されている。
この埋蔵金伝説は昭和20年(1945年)ごろに、大量の金の埋蔵場所を示す巻物や絵図が発見されたことで話題になったもの。多田銀銅山はかつて豊臣秀吉の巨大な経済力を支えた場所でもあり、埋蔵金を隠すにはうってつけな場所でもあったことから、当時は相当な話題になったという。
実際、現地での調査も何度か行われたそうだが、残念ながら今のところは何も見つかっていない状態だ。前述した埋蔵金の在処を示す巻物や絵図の内容が気になる人もいるかもしれないが、これらの資料が広く出回ると、一獲千金を狙う「山荒らし」が増えて地元に迷惑をかけるのではないかという懸念もあり、コピーを含め一部の研究者しか閲覧できない極秘文書となっている。
一方で、この資料について歴史的証拠に乏しいという意見もあるため、豊臣秀吉の埋蔵金の存在自体が議論の対象となっている。なお、多田銀銅山自体は一般公開されており、豊臣秀吉ゆかりの「台所間歩」や坑道「青木間歩」などを見学することも可能なので、気になる人は足を運んでみてはいかがだろうか。
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信ぴょう性の高い「蘆名義広の埋蔵金」
福島県の中央に位置する猪苗代湖には、「蘆名義広の埋蔵金」が沈んでいるといわれている。天正17年(1589年)、磐梯山麓の摺上原の戦いにて、会津の蘆名義広は出羽米沢の伊達政宗に敗れ、若松城を脱出して常陸へ逃れようとした。
脱出は夜のうちに行われたが、一族郎党に加えて馬18頭分にも及ぶ金も持ち出していたため、途中で何者かに追われるかもしれない。そこで、義弘は猪苗代湖に金塊を沈め、荷を軽くしてその場を去ったという。
この話は葦名氏の筆頭家老手記などの文献にも記されており、埋蔵金伝説の信ぴょう性は高いとされている。
また、昭和初期には郡山の古物商が、埋蔵金について記した古文書を入手。地元の有力者と共に引き上げようとしたが、これを知った蘆名氏の子孫と裁判沙汰になってしまった。
さらに、地元の有力者とも金銭トラブルが発生するなどすったもんだの後、引き上げ計画はうやむやになってしまった。ちなみに猪苗代湖の水深は平均で50メートルと、そこまで深いわけではない。
それなのに現在まで埋蔵金やその痕跡が見つかったという報告は一切ない。猪苗代湖周辺には他にも、銭森長者や赤津の金鉱に関する埋蔵金など、複数の伝説が存在しているため、蘆名義広の埋蔵金もこれらが合わさって生まれたものかもしれない。
週刊実話増刊『禁断の戦国史』より一部抜粋
