高市早苗政権が発表した経済対策は21.3兆円規模と、2020年の新型コロナウイルス感染拡大以降で最大だった。その内容はおこめ券や子どもにつき2万円給付など補助金(バラマキ)のオンパレード。これを「財政運営として尋常な感覚ではない」と批判するのは、世界的投資家の木戸次郎氏だ。木戸氏が解説する。
長年にわたって積み重なってきた惰性と疲弊が最終段階に突入した証
日本という国が、なぜこれほど長い時間をかけて現実から目を逸らし続けてこられたのかという問いが、1ドル157円という常識外れの為替の前に突き付けられた瞬間、いよいよ避けがたい形で私の胸に重く沈んだ。
かつて120円ですら危険な円安と受け止められ、130円に近づけば大騒ぎしたこの国が、157円に至っても危機感の声ひとつ上がらない。
沈黙とは、感覚が麻痺した国家にだけ訪れる現象であり、それは長年にわたって積み重なってきた惰性と疲弊が最終段階に突入した証でもある。
異常が異常として認識されず、危機が危機として機能しなくなるという現象こそ、この国の最も深い劣化の兆候だと私は考えている。
その最中に発表されたのが21兆円超の経済対策である。
政府は「税収の上振れ分と国債で賄う」と説明し、あたかも健全な選択であるかのように語るが、この税収の上振れとは円安によって名目の数字が押し上げられただけの泡にすぎない。
輸出企業の利益が為替の恩恵で押し上げられ、株価が吊り上がり、その結果として税収が増えて見えるだけであり、経済の実力とは何の関係もない。
だが政治はこの泡を恒久財源であるかのように扱い、翌年度の予算に平然と組み込む。円高方向に逆回転した瞬間に霧散する財源を土台に政策を積み上げるというのは、財政運営として尋常な感覚ではない。そして、その危うさを正確に説明する政治家はどこにもいない。
物価対策の中身もまた、実態は補助金を並べただけの延命策にすぎない。電気やガスの補助は3月まで、光熱費支援やおこめ券も期限付きですべて消える。
政策とは呼べない、単なる“3月までの鎮痛剤”の束である。痛みの根源には一切手を付けず、症状を麻痺させるためだけに鎮痛剤を投与し、その一瞬の緩和を「対策」だと呼んでいる。
日本は三十年かけて、この延命の習慣を国家の標準仕様として受け入れてきた。そして、その習慣こそがこの国の衰退を最も深いところから加速させている。
所得税か法人税か消費税か、いずれかの大きな増税が避けられない
防衛費の問題も同じ構造にある。GDP比3.5パーセントという巨大な目標だけが先に走り、財源の議論は曖昧なまま意図的に棚上げされている。
実際には数兆円規模の恒久財源が必要であり、所得税か法人税か消費税か、いずれかの大きな増税が避けられないにもかかわらず、政治家の口から「増税」という言葉は一度として公に語られない。
そして代わりに繰り返されるのが「国民の皆様のために」という便利な言葉である。だが、その語尾とは裏腹に、まるで「説明しなくても国民は従うだろう」という前提が透けて見える。
この形式的な敬語の裏側に漂う奇妙な温度差こそ、日本政治の驕りと慢心を象徴しているように思えてならない。
片山財務大臣の発言には、その驕りがさらに露骨に表れている。「介入もありうる」と強気の姿勢を見せながら、どこか市場を叱りつけるような傲慢さが漂う。しかし市場は微動だにしない。それどころか、発言の直後に円安方向へ動く場合さえある。
これは市場が冷淡だからではなく、日本政府と日銀が円安を本気で止める意思を持っていないことを海外勢が完全に見抜いているからである。

