口先介入に反応しない市場「日銀の主体性の喪失」
政府は円安による税収上振れを財源として当て込み、国債を増発し、それを日銀が買い取り、その結果さらに円安が進み、再び税収が増える。
この循環構造が市場に完全に読まれている以上、片山氏がどれほど“偉そうな口先介入”を重ねても市場が反応するはずがない。
市場は言葉ではなく構造を見るのであり、構造が崩れている国の発言を受け止める理由はどこにもない。
そして、その構造の根本に存在するのが日銀の主体性の喪失である。
本来、物価が粘り始めた段階で小幅でも利上げを行い、「痛みを受け入れる覚悟」を示すべきだった。市場が求めていたのは利上げ幅の問題ではなく、中央銀行としての主体的な意思表示であり、時間を先取りする気概だった。
しかし日銀は「注視」「慎重に」「適切に」という逃げ道に留まり続け、政策は後追いとなり、時間感覚は完全に遅れた。信認とは、崩れる音を立てて失われるのではなく、薄皮一枚ずつ剥がれるように静かに消えていく。
いまの日銀の姿はまさにその最終段階であり、植田総裁が何を語ろうとも市場が冷ややかに受け止めるのは、日本銀行を「主体的に舵を切る中央銀行」とは見ていないからである。
「お前の国の首相は、高市帝国でもつくる気なのか」
外の世界からは、日本のこの現実がさらに冷ややかに見えている。
シンガポールでヘッジファンドを率いる友人から届いたレターには「日本は円安を止める意思がない」「日銀は主体性を失い、政治は現実を見ようとせず、国民は慣れ切っている」「世界は19世紀の力の秩序へ戻りつつあり、日本は米中対立の踏み石として扱われている」と書かれていた。
そして最後に、皮肉ではなく事実認識としてこう記されていた。
「お前の国の首相は、高市帝国でもつくる気なのか」。
この一文に、外の世界から見た日本政治への不信と軽視が凝縮されている。日本は主体ではなく、国際政治の力学の中で都合よく扱われる存在に成り下がりつつあるという残酷な現実である。
国内市場ではソフトバンクによるエヌビディア株の売却が象徴的な動きを見せた。孫正義氏は、AIバブルの最高潮の熱狂の中にいながら、その熱狂と一線を画し、冷徹に利食いを断行し、本丸たる事業投資へ資金を集中させるという、極めて合理的な判断を下したことになる。
なぜ孫氏だけが、このタイミングで迷いなく利食いができるのかといえば、その背景には第一次ITバブルの記憶がある。
当時、ソフトバンク株はバブルの象徴としてランドマーク的に跳ね上がり、崩壊とともに企業価値とは関係なく暴落した。その残酷さを最も深く刻んでいるのは孫氏本人であり、だからこそAIバブルの熱狂を奇妙な既視感として捉え、利食いのタイミングを見誤らない。
バブルは企業価値とは無関係に膨張し、崩れる時は無慈悲である。その本質を身をもって知る者だけが、熱狂の中心で利食いの判断を下せる。

