「空白の一日」を経て1979年巨人に入団した江川卓は、2年目16勝、3年目20勝と2年連続最多勝を獲り、名実ともに球界を代表するピッチャーとなった。
空前絶後の才能に日本中が陶酔した軌跡を記した書籍『怪物 江川卓伝』より、ライバル掛布雅之の証言を紹介する。
「ボールが自分のバットを振る上を通過するように見える」
1980年代にバリバリにやっていたセ・リーグの主力打者にとって江川卓の存在は脅威にしか思えなかった。YouTubeやネットの記事で昭和の大打者が回顧録のように話すのが今ハズっているけれども、その80年代活躍した打者たちは必ず江川のことを話す。それほど江川卓は特殊な投手だったってことだ。
しかし掛布雅之は他の大打者との思いと少し違う。それは掛布と江川にしかわからない、18.44メートル内での会話があったからだ。
「三年目の江川が20勝したときなのかな。そのときのストレートってのは、それはもうとんでもないストレートでした。本当にボールが自分のバットを振る上を通過するように見える感じ。ボールが落ちない。
物理的にはそんなボールないんでしょうけど、感覚的には伸びてきて浮き上がるというイメージのボールですね。
オーソドックスなオーバースローですので、出どころが見づらいとかはなく、真っ向から正々堂々とストレートを投げ込んできますから、その意味では嫌なタイプのピッチャーではなかったですが」
江川の球は「伸びる」「浮き上がる」と判で押したように表現される。高校、大学時代に対戦した打者だけでなく、プロの一流選手までもが驚き顔で言うのだ。
バッテリー間の18.44メートルに投げられたボールの軌道は160キロだろうと物理の法則的に緩やかに弧を描く。その軌道を予測してバッターは打つ。
バッターが、伸びる、浮き上がると表現するのは、弧を描く緩やか度が少ないことを指す。今まで何度も何度も言われてきた事象だ。そんなことをわかったうえで、浮き上がって見えたではなく、本当に浮き上がったんだと真顔で断言する者もいる。江川卓のボールとは一体なんなんだ?
掛布はさらにこう続けた。
「速いピッチャーは過去何人もいました。スピードガンの数値じゃないんですよね。バットを出しても振り遅れとかじゃない、当たらないボールなんです」
振り遅れとかじゃない、当たらないボール。掛布雅之が発した独特のこの表現こそが、江川卓のボールの真骨頂のように思えた。
全盛期の江川のアウトハイを流してホームランにした男
当たらないといえば、ダルビッシュのスライダー、野茂英雄のフォーク、西本聖のシュートなど魔球のような変化球を投げる投手は幾人もいた。江川卓のストレートも、真っ直ぐでありながら魔球というレベルということか。
だから半世紀が経っても、佐々木朗希のような160キロ以上な投げる投手が出てくるたびに、江川卓がフィーチャーされるのだ。
当時の阪神のベンチワークとして、どういった指示を出していたのかを訊いてみると、
「高めは振るなの一点ですね。真っ直ぐとカーブしかないですから。ストレートをいかに見極められるか、高めを振ったらもう勝負できないですもんね。
当時の安藤(統男)監督からミーティングで『高めのストレートを打つな』と耳にタコができるほど聞かされるんですけど、ミーティング終了後に『お前はその高めのストレートを打ちたいんだよな。お前は振りにいっていい』と言われるんですよ。
四番が打たなくても他の選手が打てばチームは勝てます。ただ監督がチーム全体で『高めのストレートを打つな』と言ってるのに『お前だけは打っていいよ』とわがままな勝負をさせてもらったときこそ、チームの勝敗をすごく背負った打席になるんですよね。
監督は、江川というピッチャーのストレートに対して勝負をかけるアプローチの仕方を全面的に任せてくれる。なおさらずしりと重たく感じて打席に入るんです。だから特別なんですよ」
江川との勝負が特別でもあり別格というのは、何もただただ男と男の勝負を賭けているだけでなく、チームの勝敗の鍵、監督の思いなどもすべて背負っていることから生まれている。それだけ江川卓という存在が、特別であり偉大だということだ。
掛布は江川から14本ホームランを打っているが、月並みな質問として最も印象のあるホームランはどれか尋ねてみた。
「最初のホームランも忘れられないですけど、アウトハイのストレートを後楽園でレフトスタンドに放り込んだホームランかな。多分彼はあの高さのアウトハイってのは、誰も打たれたことないと思います。
僕もよく打てたなと思うんですけど、ちょっと風がね、甲子園と同じ浜風みたいのが吹いてたんですよ、後楽園に。これも反応したんでしょうね。甲子園球場のような風が吹いていて、高めのアウトコースのストレートをレフトスタンドに持っていったことで彼もびっくりしたと思います。
僕もびっくりしたんですけど。本当にうまく上からボールを叩くことができたんでしょうね。ヘッドが負けずに」

