
■「今村昌平は観察者。人間を昆虫のように撮っている」
――今月の押井さんの「裏切り映画の愉しみ方」は今村昌平の『人間蒸発』について語っていただいています。後編になる今回はもっと今村昌平に踏み込んだお話になりそうですが…。
「今村昌平が『人間蒸発』でやった詐術は監督としては当たり前のことではある。だた、普通はあそこまで開き直ってやらないだけ。今村昌平だからこそできたんです」

――あの押井さん、それはどの部分のことですか?
「人間はみんな同じ、というふうにしか見てないというところですよ。彼は『人間蒸発』でそれを方法化して、映画にしてみようとした。ほかの監督がそれをやっちゃうと干される危険性があるけどね」
――今村昌平にとってもそれは初めての試みだったわけですね?
「そうです。彼の映画は基本、達者な役者をつかって撮るというもの。『復讐するは我にあり』(79)なんて緒形拳、三國連太郎、小川真由美等、一流ばかり。時々泥臭い演出が顔を出して、緒形拳が小川真由美を絞め殺す時、彼女が失禁する。それもとんでもない量を。女優だからといって手加減しないんです」
――押井さん、今村昌平のファンなんですか?
「私のつくれない映画をつくっている監督だよね。私は彼が撮るような映画を撮ってみたいとは一度も思ったことはないし、撮れるとも思わない。私は基本、きれいなものを見たいけれど、彼はそんなこと微塵も思っていないし、女優をきれいに撮ろうとも思っていない。なぜなら、生の人間しか興味がないからです。女は『赤い殺意』(64)の春川ますみのようにどーんとしていて、男は姑息で卑劣、軟弱でいい加減。どーんとしたおばちゃんの腰にしがみついているだけ。それが日本人だといいたいんです。そういう監督はいないし、だからこそ本当におもしろいと思うんだよ」
――“生”の人間ですか。
「今村昌平は観察者。だから人間を昆虫のように撮っている。自作には必ず動物を出すんだけど、それは哺乳類じゃなく魚だったり虫だったりする。私が聞いたところによると、現場で主人公の女優に“ウサギ”とか“イヌ”とかの通称をつけていたらしいよ。女優だけにつける。それは動物として愛すべき存在だからそう呼んでいたいんじゃないかな。それが今村昌平の人間観。人間も動物の一種に過ぎない。社会的地位や容姿に価値観はなく、あくまで生き物として観察し、生き物として愛情を注いでいる。それ以外の部分でなにかを付け加えるということも一切しない。
そういうふうに人間を見ている、今村昌平のタイプって系譜がないんだよ。一番弟子の浦山桐郎は『私が棄てた女』(69)等を撮って若くして(54歳)亡くなってしまったし。強いて言えば三池(崇史)さんかなあ。彼は今村昌平の助監(督)だったこともあるから。三池さんはリアリズムというか人間に対する容赦のなさが今村ゆずりなんだけど、女にまったく興味がない。女性が登場してもひどい扱いばかりだよね。男は驚くほど色っぽく撮るのにさ。それが三池さんの個性というか独特なところ」
■「女性は最後まで血縁で生き、男は実態をもたないまま滅んでゆく」
――今村昌平が活躍していた当時も、彼のようなタイプの監督はいなかったんですか?
「川島雄三がそうかな。というのも彼の弟子が今村昌平だったから。川島雄三は若尾文子をよく撮っていたけど、必ず彼女をトイレに行かせていた。さすがに用を足している様子は撮らないものの、しゃがんで音が聞こえるところまで撮る。ドラマの流れとはまったく関係なくトイレに行かせるんだからね。それは彼女を生き物として見たいからなんだよ、おそらく。
川島雄三と今村昌平は、人間という幻想を通して見ている限り、本当のドラマにならないと考えていた監督。人間を人間として見た時点でフィルターがかかっているということだよね。でもいまは、人間の皮をかぶせないとドラマが成立しないようになっている。人間の皮を剥ぎ、そこから人間を見つめるのは難しくなった。その対象が女性が多いのは、監督が男性だったからだと思うよ。そのほうが興味が持続するからですよ」
――トイレと言えば、宮崎(駿)さんも『魔女の宅急便』(89)でキキをトイレに行かせてましたね。あ、トイレ行くんだって。
「あれは宮さんがやりたかったわけじゃなく、トシちゃん(鈴木敏夫)にたぶらかされたんだよ(笑)。『いまどきは、そういう描写もないとみんなノリませんよ』みたいなことを言われ、しぶしぶ入れたの!モジモジしているというか、イヤそうな感じが出ていたじゃない」
――でも押井さん、トイレに行かせたくらいで女の子にリアリティがプラスするとは思いませんけど。
「普通はそうです。でも、あのおっさんコンビが考えることだからね。トシちゃんはわかっているつもりでも、実はまるでわかっていません。わかってない者同士でやりとりして冒険したようなつもりになっているだけです。初めて実家を離れ、他人の家で暮らすようになった少女の緊張感と言えばそうも言えるけど、宮さんが描けばそういうシチュエーションであっても溌剌としているはずなんだよ。あんなに恥ずかしそうにしているのは初めて見た。アニメーターというのは、思っていることがそのまま絵に出ちゃう人たちだから、当人も絶対に恥ずかしかったに違いないんです!」

――な、なるほど。すみません、話がそれてしまいました。
「話を今村昌平に戻すと、彼のテーマは血縁だった。タイトルは憶えてないけど、確かもう1本、姉妹と血縁の映画を撮っていたと思う。姉妹というのは独特の人間関係だから興味があるんじゃないの?嫉妬もあればマウントもあり、それを彼女たちは無意識にやっている感じ。もちろん、男の兄弟にもそれはあるものの、男の場合は一定の年齢になれば離脱できる。でも、姉妹の場合は難しい。なぜなら、女性は最後まで血縁で生きるから。生命の連鎖は女性にしかないからそうなる。血縁で生まれて血縁に回帰するのが女性なんです。結婚して子どもを産んでも実家の存在が必ずある。旦那ではなく、自分の母親だったり姉妹だったり叔母さんだったり甥っ子だったり、そっちの関係に近づいていく。女性は最後は実家というか、自分の血縁を選択する。そういうサイクルでは男は必要ないんです。血縁に縛られて生きることも、普通の男はまずない。私も18歳の時に家を出て帰ってないからね。その時はせいせいした、これでやっと自由に生きられるって思ったから」

――そ、そうですか?
「もちろん例外はあるよ。でも、血縁は選べないから生涯確執がついてまわるんです。女性が血縁に回帰するのは、私もある時気が付いた。男は結婚して実家を離れ、子どもができたら実家から離脱する。女性は最後は実家というか、自分の血縁を選択する。母親と娘の関係が一番救いがあるパターン。同じ経験をし同じように生きるから。オヤジの最後は結局、ゴミです。それはしょうがないの。女性の場合は実体があるからそうはならない。彼女たちは小学生の時からそう。ちゃんと生き物としてDNAに刻まれている。小学生の時の男子は単なるバカだから。体力でいうと小学生の低学年の間は女子のほうが強い。でも、中学に入ると一変する。男子にどうしても勝てなくなる。身体が変わるから。でもそれは、男が成長して筋肉がつくからじゃなくて女子の身体が変わるから。女性になるんです。失われるものがいっぱいあるけど、新たな能力が備わる。要するに出産する準備に入るんだよ。
生きるうえではその違いは決定的。どう考えたって、子どもを産み育てて行くほうが生物としてまっとうだから。男はそこで一瞬だけ手を貸すだけ。男はそうやって実態をもたないまま滅んでゆくんです。だから、賢いふりをしてみたり、力を誇示してみたり、快感原則に従ったりするの。酒、女、博打に走るか、インテリのふりをして生きるかどちらか。どっちも似たようなもんです、私に言わせれば」
――女の人は本能的に帰る場所をわかっているということですね。
「娘の時からわかっている。ごっこ遊びをしている時から、すでにその練習に入っているんです。男子は棒っ切れを振り回しているだけのバカだから。知恵がつくのも圧倒的に女子のほうが早い」
■「傑作だけじゃダメ。凡作駄作珍作を観ないと、映画のおもしろさは永遠にわからない」
――言われてみると、そんな感じしますね。で、『人間蒸発』は?
「だから、この連載の趣旨に沿って言えば、映画にとって裏切りがなぜ重要なのかという、その一つの答えが『人間蒸発』。成り行き上、裏切らなければいけなくなった。監督の意図ではなく結果としてそうなった。そのおかげでただのドキュメンタリーに比べると数倍おもしろくなった。だから歴史的な1本になったということです。私は今村昌平の作品のなかで彼の本質が一番わかりやすい映画だと思っている。劇映画だといまいちわからないんだよ。なぜかと言えば上手い役者さんを演出すると、みんなその気になっちゃうから。キャラクターに感情移入するからですよ。いつも言っているけど、登場人物に感情移入している限り映画の本質から遠のくだけ。私はそれを否定しようとしてきた監督なんだから。結果として多くのものを失いましたが」
――そういうお話を聞くと、押井さんが今村昌平の『人間蒸発』が好きな理由が見えてきますね。
「『人間蒸発』は仕掛けようとしたわけではなくなってしまった。そこがポイント。フェイクドキュメンタリーはいっぱいあって、私も好きだよ。でも、そういう映画は、これはフェイクですというサインをちゃんと送っているの。ところが『人間蒸発』はそういうサインを一切無視して撮っているのに、結果的にフェイクになっちゃった。そういう映画は二度とつくれない。なぜなら、そういう視点で人間を見ている監督がいないからです。演技している役者を追いかけるよりも生の人間を追いかけるほうがよっぽどおもしろい。だって本当におもしろいんだもん。生っぽくてえげつなくて。週刊誌みたいなもの。スキャンダリズムそのものなんだから!松竹とか大手の映画会社でやったらできなかっただろうけど、わずかな製作費だけ出してあとは野放しだった当時のATG(非商業主義のアート映画を中心に製作・配給した映画会社)だったから生まれた映画。そういう映画にはもうお目にかかれないよ、絶対」

――押井さんの大好きな破綻映画ですしね。
「うん、何度もいうけど、破綻してないと映画の隙間が見えてこない。傑作だけじゃダメで凡作駄作珍作を観ないと映画のおもしろさは永遠にわからないんだから。いまは神かゴミかどちらか。これってもっとも貧弱な観方だよ。次に語る作品はまさに賛否両論だった映画。そのよさが理解できない人間の多くが、ゴミとかクズとかひどい言い方をしていたから」
――では、その気になる映画は次回、よろしくお願いします!
取材・文/渡辺麻紀
