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「オンリーワンの自分」はもう必要とされないのか…自ら選ぶより、アルゴリズムに最適解を示してほしい現代の若者たち〈三宅香帆〉

「オンリーワンの自分」はもう必要とされないのか…自ら選ぶより、アルゴリズムに最適解を示してほしい現代の若者たち〈三宅香帆〉

超情報化社会においては、自分で選ぶのではなく、アルゴリズムが最適解を選んでくれるほうがラクでいい、と思うことが多くなる。しかし、そうなると失われてくるのが「自分らしさ」だ。かつては重要視されたアイデンティティの存在意義について三宅香帆氏が考察する。

『考察する若者たち』より、一部抜粋、再構成してお届けする

最適化された自分

私がアルゴリズムと呼んでいるものは「レコメンド(おすすめ)」と「パーソナライズ(個人化)」の二つの要素のことである。

つまり、個人個人の見たものに合わせて(パーソナライズ)、それぞれに合った情報をおすすめしてくれる(レコメンド)。それこそがアルゴリズムの仕組みである。より多く見るように最適化される。その結果、私たちの前には、選ばなくても勝手におすすめの情報が現れるようになる。

するとどうなるか。自分で選ぶ必要がなくなるのだ。凄い話である。つまり、アルゴリズムが変えたのは、自分はどんな作品をいいと思っていて、どんな固有性があるのか――「自分らしさ」がどうでもよくなったということなのだ。

どんな映像を観たいのか。どんな作品を読みたいのか。どんな動画が好きなのか。すべてアルゴリズムのおすすめによって規定される。だからこそ私たちは、自分がどんなものが好きなのか、考えなくてもいい。

この超情報量が多い社会においては、見たい情報を選び取るだけでひと苦労だ。だからこそ、自分が選ぶのではなく、アルゴリズムが選んでくれるほうがいい。

あなたもそう思ったことがあるのではないか。本屋さんや服屋さんに行くと「本や服がありすぎて何を買えばいいかわからない、誰かに最適解をおすすめしてほしい」と感じる人も多いだろう。そこがプラットフォームは得意なのだ。

糸井重里が著書『インターネット的』(PHP新書)で指摘するように、インターネット的であることがリンク、シェア、フラットだとすれば、プラットフォームによる「最適化」、つまり個人へのおすすめ機能がある世界は、そこに「オート」という機能を持ち込む。

インターネット的=リンク、シェア、フラット
プラットフォーム的=(リンク、シェア、フラットに加えて)オート

自動的に選んでくれる。私たちがこれまで手作業で選んでいたものを、今度は機械がオートで選んでくれるようになる。あなたがどんな界隈に属しているのかをジャッジして、自動でおすすめしてくれる。

それこそがいまの時代の構造なのである。プラットフォーム社会、とでも呼べばいいのだろうか。

――YouTubeを見ても、Instagramを見ても、TikTokを見ても、Ⅹを見ても、AIに聞いても、私たちは自分で情報を選ばなくていい。アルゴリズムが、自動で見るべき情報をおすすめしてくれる。

それは、どんな情報がほしいのか、選ぶ自分が必要なくなった世界なのだ。欲望する主体が消えた世界である。何を欲したらいいか、誰かが教えてくれる。

現代では、最適化された情報が、オートでおすすめされる。そうなると、自分らしさなんて、必要なくなってくる。

自分らしさから生きづらさへ

2003年、流行していた曲にこんな歌詞があった。

No.1にならなくてもいい
もともと特別なOnly one
(SMAP『世界に一つだけの花』槇原敬之作詞・作曲)

ナンバーワンというヒエラルキーの世界から、オンリーワンというフラット化した世界へ……とは『インターネット的』な歌詞だったなあといまとなっては思う。

しかし、プラットフォーム社会では、すでに「Only one」でもなくなってきている――その感覚を描いた小説が、2025年に刊行された村田沙耶香の『世界99』(集英社)だった。

『世界99』は主人公の空子の一生を描いた物語である。空子は、言動をつい周りの人に合わせてしまうという特性をもった女性。彼女は、コミュニティごとに人格を変えていく。それは決して無理してやっていることではない。空子は、コミュニティごとにキャラを最適化していくことが当たり前だと思っており、固有の自分らしさなんて存在しないと思っているのだ。

「あ、はい、全然『キャラ』違いましたよね。アクセサリーとかも変えてて、あー、月城マネージャーの『キャラ』凝ってるー、って思ってつい声かけちゃったんです」
小早川さんがあっさり言うので、私は少し驚いた。
いつもと違う「キャラ」として振る舞っている誰かを見かけたとき、なんとなく、マナーとして知らないふりをする、という認識が自分にはあった。ある程度のペルソナの使い分けは皆やってることだろうが、いざ人のそれを見かけると、その人物の恥部を知ってしまったような気持ちになるし、自分も羞恥心に襲われる。たぶん、外から見たら自分もこうなのだろうな、と同時に思わされるからだろう。

小早川さんの、多面体で生きていることをまったく隠さないあっさりとした態度は私には意外で、胸の中がざわついた。
(村田沙耶香『世界99(上)』)

空子は場所ごとに最適化された自分になる。まるでアルゴリズムそのものみたいだ。自分を仲間に合わせてパーソナライズ化して、キャラを変えていく。空子にとってそれは自動的に、考える間もなくやることなのである。

これはまさに、プラットフォーム社会の最適化に慣れた私たちの姿を比喩的に描いている。村田沙耶香は意図していないかもしれないが、『世界99』は結果的にプラットフォーム社会の物語になっているのだ。

社会学者の土井隆義は『キャラ化する/される子どもたち 排除型社会における新たな人間像』(岩波ブックレット、2009年)で、「キャラ」を重視する子どもたちの姿を論じた。スクールカーストという言葉が一般的になった2000年代、グループやクラスに合ったキャラを演じること。それこそが人間関係を円滑に回す手段だったと土井は分析する。

土井が論じた当時の子どもたちは、人間関係に合わせてどんな振る舞いをするか、そのキャラを自分で選び取っていた。しかしそれから15年ほど経ち、皆が空気を読んでキャラ化するのが当たり前になった現代において、私たちはその場に合わせた「最適化」としてキャラクターを選択してしまう。

自分の振る舞いを、その場に合わせて、最適化していく。もはやオンリーワンではない。自分のキャラは変わっていくものだから。

だが、空子はキャラからはみ出る自分の欲望に気づく。それは決して喜ばしいものではなかった。そう、むしろ最後に残る自分らしさとは、空子にとって「生きづらさ」なのである。最適化できない自分は、生きづらい。世界に最適化していったほうが、生きやすい。

『世界99』が表現しているものは、こういうことだ。――自分らしいことは、プラットフォーム社会では、価値ではなくなっている。

なぜなら自分らしすぎると、それぞれの世界に最適化できないからだ。

つまり現代において、自分らしさとは、生きづらさになっている。なぜなら「界隈」化がどんどん進んでいく時代にあって、こういうふうに生きるのがこの界隈では正解だ、といううっすらとした最適解が共有される時代になった。すると最適解から外れた自分らしさは、正解をもてない生きづらい自分に変わってしまう。最適解から外れるとすなわちそれは生きづらさになってしまう世界に、私たちは生きている。

世界で一つだけの花であることは、花の育て方が一つしかないということだ。それはわりと大変なのだ。面倒なのである。

そう、自分は世界で一つだけの花だと思うよりも、自分は世界ごとに99ものキャラで成り立っていることを認めたほうがいい。『世界99』の空子は本当にそう思っている。

空子は最終的にある選択肢を選ぶ。それはまさに社会に求められる形そのものに最適化していく選択肢であった。

でも絶対、みんなのほうがおかしいですよ。だって、本当はやってるじゃないですか、ペルソナって普通に使い分けてるのに、どれかが『本当』のふりしてるのってなんか変! その感覚のほうがなんか違和感ありますー!
(村田沙耶香『世界99(上)』)

オンリーワンの自分ではなく、最適化されたキャラになろうとする空子は、自分自身を解体してゆく。必要なのは、自分らしさではなく、自分的なキャラクターである。つまり、一つひとつの世界・「界隈」ごとの自分なのだ。

文/三宅香帆

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