成果を上げた「アベノミクス」
第1次政権を体調不良と選挙の敗北で投げ出すという屈辱感を引きずっていた安倍晋三は、それから5年後、首相として「再登板」を果たし、第2次安倍政権を実現させた。
「再登板」は戦後間もなくの吉田茂から、60年以上もなかったことである。
安倍の退陣後、自民党政権は福田康夫、麻生太郎が共にほぼ1年間の短命で終わり、政権はついに民主党へと移り、その後、自民党は約3年間を野党に甘んじてきた。
この野党時代に、再び自民党総裁のポストにあった安倍が、民主党・野田佳彦首相による衆院解散の意向に同調した結果、総選挙で自民党が勝利したことにより、首相の座に返り咲いたのである。
「再登板」を果たした安倍は、5年余前の第1次政権の手法をかなぐり捨てたように、いささか強引、直進的な政権運営に転じた。
まず、あえて「お友達人事」との批判を尻目に、政権運営を支える閣僚、党役員の主軸に、自ら気心の知れた側近を重用した。これにより、トップダウンの政治手法が可能になった。
そして中央官庁の事務次官、局長はもとより、審議官以上の幹部の人事権を握る政治機関として「内閣人事局」を創設したことで、官僚は政権の意向に異論をはさむことが難しくなった。
さらに「法の番人」である内閣法制局もこの対象であったことから、政策推進における法的根拠は、絶えず「番人」に守られることになったのである。
そのうえで、自らは外交、安全保障に主軸を置き、内政は財政政策、金融政策、成長戦略の「3本の矢」を掲げた。なかでも、異次元の金融緩和政策を取り続けた「アベノミクス」で、綱渡りながら雇用面での成果を上げたのだった。【歴代総理とっておきの話】アーカイブ
安倍一強による長期政権
そうした一方で、特定秘密保護法、安保法制としての集団的自衛権行使の個別的容認など、それまでの歴代政権が踏み出さなかった法案を成立させて、“右舵路線”に突き進んでいる。
外交では、とりわけ米国のトランプ大統領に接近し、「日米同盟」の色合いをより強めた。沖縄の米軍普天間飛行場の辺野古移転、米側の日米貿易不均衡是正要求にも、前向きな対応をしたものであった。
対して、ロシアとの北方領土返還交渉や、安倍内閣で「必ず解決する」と力説していた北朝鮮との拉致問題には、具体的な成果を出せなかった。
しかし、第2次政権発足後、衆参の国政選挙に都合5回も臨んだが、いずれも勝利を収め、これが「安倍一強」といわれた大きな要因であった。
とはいえ「一強」による長期政権は、さすがに「緩み」や「驕り」が生じることとなり、政権後半は不祥事、スキャンダルが付いて回り、それが重用した側近との不協和音に発展していったことで、暗雲が漂い始めた。
内政を主導した麻生太郎副総理兼財務相、「盟友」とされた菅義偉官房長官、連戦連勝の選挙を仕切った二階俊博幹事長との軋轢が、その象徴であった。
また、スキャンダルについては、安倍夫妻が関わったとされる「森友問題」などがあり、これに関連した財務省の公文書改ざん問題も明るみに出て、財務官僚の「忖度」が云々された。
あれやこれや、安倍は第1次と「再登板」を果たしての第2次から第4次まで、じつに通算8年間の長期政権を成し遂げたのである。
