
「楽しそうな人といると気持ちが明るくなる」など、私たち人間では気分が他の人にも伝染します。
この現象は哺乳類や鳥類など多くの脊椎動物で確認されてきましたが、社会性のある昆虫でも同じようなことが起きるのでしょうか。
中国・南方医科大学(Southern Medical University)の研究チームは、マルハナバチの仲間同士で“ポジティブな内部状態”が伝わり、わずか30秒の短い交流でも観察者の判断が前向きに変化することを示しました。
この成果は2025年10月23日付の科学誌『Science』に掲載されています。
目次
- 昆虫も楽観的になるのか
- マルハナバチの「ポジティブ状態」は仲間に伝播する
昆虫も楽観的になるのか
昆虫は人間のような表情を見せません。
そのため長い間、昆虫の行動は主に反射的かつ機械的に説明されることが多く、私たちが想像するような「気分」や「感情」に注目する研究は限られていました。
しかし2010年代以降、昆虫にも楽観的あるいは悲観的な方向へ傾くような内的状態が存在する可能性が示され始めました。
その有力な手がかりになっているのが、動物の内部状態を推測するための「判断バイアス(judgment bias)」という方法です。
判断バイアスは、人間で言えば曖昧な状況に置かれたときの反応の違いを見て気分の方向を推測するようなテストに近い発想です。
まず動物に、良い結果につながる刺激と、良くない結果を示す刺激を学習させます。
そのうえで両者の中間となる“曖昧な刺激”を提示し、どれくらい積極的に近づくかを見ます。
もし曖昧な刺激に対して素早く向かうなら楽観的(ポジティブ)であり、慎重になれば悲観的(ネガティブ)だと考えられます。
マルハナバチでは、2016年にこうした判断バイアスを用いた研究が報告され、予想外に砂糖滴を与えられた蜂が、曖昧な色の花により積極的に向かう “楽観状態” を示すことが知られていました。
この知見は、昆虫にも状況に応じて変化する内部状態がある可能性を示す重要な手がかりでした。
そこで今回の研究チームが掘り下げたのは次の問いです。
個体のポジティブな内部状態は、その場にいる仲間へも伝わるのでしょうか。
もし伝わるなら、昆虫の社会行動や集団の意思決定は、私たちの想像よりも繊細な“雰囲気の共有”に支えられているかもしれません。
この問いを明らかにするために、セイヨウオオマルハナバチ(Bombus terrestris)を対象に、1匹の蜂のポジティブ状態が、別の蜂の判断バイアスへ移るかどうかを検証することにしました。
マルハナバチの「ポジティブ状態」は仲間に伝播する
研究者たちはまず、蜂に色の異なる人工の花を学習させました。
ある色は砂糖水のある“当たり”で、別の色は砂糖水のない“外れ”です。
これによって蜂は、色に応じた期待を持つようになります。
次にデモンストレーター役の蜂に、予想外の砂糖滴を1滴だけ与えました。
この“ささやかなサプライズ”によって、デモンストレーターは楽観的な判断バイアスを示すポジティブ状態に入ります。
問題はここからです。
この蜂と、何の報酬も受けていない観察者の蜂を、狭い空間で30秒だけ一緒にさせます。
その後、観察者の蜂だけを取り出し、中間色の花を提示して反応を調べました。
結果ははっきりしていました。
観察者の蜂は砂糖をもらっていないにもかかわらず、曖昧な色の花に対してより素早く、そしてより積極的に反応したのです。
まるで自分自身がサプライズの砂糖滴を受け取ったかのような“前向きな判断”が観察されました。
これは単なる興奮や模倣ではなく、判断バイアスの方向そのものが移ったことを示す現象だと解釈されています。
では、このポジティブ状態は何を通じて伝わったのでしょうか。 研究者は条件を変えた比較実験を行いました。
その結果、透明な仕切りを入れて、互いに見えるが触れない、匂いも届きにくい状況にした場合でも、観察者のポジティブな変化は起きました。
一方で完全な暗闇にして、触れたり匂いを感じたりできても見えない状況では、この変化が消えました。
この違いから、今回の伝播には視覚情報が不可欠であると考えられます。
とはいえ、観察者の蜂が具体的にどのような視覚的手がかりで仲間の状態を読み取っているのかは、今後の検証が必要です。
では、今回明らかになった現象には、どんな意味があるのでしょうか。
研究者は慎重な姿勢を保ちながらも、ポジティブ状態の伝播には巣全体にとっての利益があり得ると考えています。
もし1匹の蜂が外界の良い兆しを体験し、その前向きな状態が周囲へ広がれば、より多くの蜂が探索に向かいやすくなり、結果として資源獲得の機会が増えるかもしれません。
逆に、危険やストレスに関係するネガティブ状態も同じように伝わるなら、集団として警戒を強める仕組みにもなり得ます。
そして何より重要なのは、情動の伝染に相当する現象が昆虫で実証された点です。
小さな脳を持つ昆虫が、短い視覚的なやり取りだけでこうした変化を起こす事実は、動物の心の理解だけでなく、効率的な情報処理の手がかりとして今後の研究や技術分野にも影響を与えるかもしれません。
参考文献
Bees ‘infect’ each other with optimism that spreads through the colony
https://newatlas.com/biology/positivity-spread-bumble-bees/
元論文
Positive affective contagion in bumble bees
https://doi.org/10.1126/science.adr0216
ライター
矢黒尚人: ロボットやドローンといった未来技術に強い関心あり。材料工学の観点から新しい可能性を探ることが好きです。趣味は筋トレで、日々のトレーニングを通じて心身のバランスを整えています。
編集者
ナゾロジー 編集部

