上司との恋愛を思い出す。あの辞令はもしや…
薄い壁の向こうから聞こえる、恋人たちの愛し合う声で目が覚めた。
傍らには、“こと”を終えて上下する昔の男の胸元--「鍛えている」と言っていたものの、長い年月の流れを感じさせる、相応の張りと手ざわりだった。だけど、それさえも愛おしく思えた。
一晩明けても、魔法はさめていなかった。指先で彼の輪郭をなぞりながら、溶け合った記憶をたどる。
昨日の晩。すぐ店を閉めたあとは、崇がよく行くという、百軒店のバーへ。そして、いつのまにか円山町の小さな部屋へたどり着いた。
誰かと同じベッドで寝るのは5年ぶりだった。妻子ある上司と交際していた時以来だ。その上司は、今や会社の取締役である。
――あ、もしかしたら、あの辞令は……。

(写真:iStock)
あの人のことだから、現場でくすぶっている私を良かれと管理職へと引き上げようとしてくれたのかもしれない。
だけど、私の中では時期尚早だ。出世と言う名の、現場からのリストラである。私はまだまだ途中の人でいたい。まだ、その先には行きたくない。
自分のことしか考えない、似た者同士だ
「どうしたの?」
大きな私のため息が、彼の顔にかかったようだ。なにも答えず、なにもかも忘れようと、腕の中に顔をうずめる。だけど、やっぱり不安になる。
「…これから、どうするの?」
「まだ日はあるけど、居抜きのいい場所を常連さんに紹介されたんだ。そこでまたなんかやろうかなって思ってる」
ホテルを出たすぐの後のことを聞いたつもりだったが、崇はなぜか近い未来の自分語りをつらつらとはじめた。

(写真:iStock)
あいかわらず「らしい」な、と思った。自分目線でしか想像が及ばない性格なのは変わってない。元奥さんが離れていったのもそんなところだろう。
私もそうだったから。
だけど、そういう所が大好きだった。自分のことしか考えない人間、似た者同士なのだ。
わたしたちの別れの理由は、私の仕事が一番楽しい時に結婚を申し込まれたこと。彼は、念願の店を出して、軌道に乗った後に結婚するライフプランを組んでいたという。
彼のことは大好きだったけど、私は自分がもっと好きだった。一旦、別れという体裁をとって関係を見つめなおそうということだったが、なぜか3カ月後、結婚の知らせが届いた。
結局、彼は自分のしいたレールの上で共に走ってくれる人ならだれでもよかったのだ。
それ以来、崇のことは脳内から消した。だけど、こんなにフィーリングが合って、大好きだった人は、今の人生思い返してみてもいない。
だからこそ、今こうやって、再び重なっている。
「――今夜、また会える?」
「今夜って、今夜?」
「もちろん。ちょうどSweetSetのトーク&ライブがロフト9であるんだ」
SweetSet、とは、25年前にデビューした男女2人組の音楽ユニットだ。あのころ、よくふたりでライブに行っていた。ジャンルとしてはいわゆるネオ渋谷系。
「懐かしい…。今でも活動してるんだ」
「解散した時期あったみたいだけどね。最近活動再開したみたい」
その偶然に、何かの糸がつながったような気がしてならない。
「行く! ライブなんて久しぶり」
「よかった。俺も行きたかったんだよ」
昨日も会って、今日も会う。スケジュールを見ずに即答する。
