「文壇の原節子」と評された向田邦子さん
主人公のぶのモデルとなった小松暢さんには実際に妹さんがいましたが、劇中の蘭子にはもうひとり、モデルになった実在の人物がいます。
フリーランスのライターである蘭子は、以前は出版社に勤め、辛口の映画評を書いていました。この設定は、ホームドラマの名手と呼ばれた脚本家の向田邦子さんの経歴が投影されています。向田邦子さんは映画雑誌の編集部で働き、独立後はシナリオライターとなり、『寺内貫太郎一家』(TBS系)や『阿修羅のごとく』(NHK総合)などの名作ドラマを残しています。
エッセイストで作家だった山口瞳氏は、小説も書くようになった向田邦子さんのことを「文壇の原節子」と評していました。昭和の映画女優・原節子さんが生涯独身だったように、向田邦子さんもずっと独身だったことが知られています。
ポートレイト写真に残された恋人の影
向田邦子さんは脚本家として売れっ子だった上に、1980年には短編小説「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」(『思い出トランプ』収録)で直木賞を受賞しています。優れた文才の持ち主でしたが、直木賞を受賞した翌年、取材旅行中の台湾で飛行機墜落事故に遭い、51歳でその生涯を閉じています。
向田邦子さんの妹、向田和子さんが執筆した回想録『向田邦子の恋文』(新潮社)によると、向田邦子さんは会社勤めしていた時期に、カメラマンのN氏と出会い、おつきあいをしていたそうです。しかし、年上のN氏には妻子がいました。N氏が離婚した後もふたりの交際は続きましたが、結婚には至りませんでした。
20代のころの向田邦子さんの写真はかなりの点数が残されており、とりわけ『向田邦子の青春』(文藝春秋)のカバー表紙に使われているポートレイト写真は、向田邦子さんがカメラに向かって微笑んでいるとても魅力的な一枚です。
この写真をよく見ると、向田邦子さんの瞳には人影が映っており、その人物がN氏だったと言われています。カメラマンとモデル、お互いの愛情がひしひしと伝わってくる写真です。道ならぬ恋でしたが、そんなヒリヒリする体験を糧にして、向田邦子さんは凄みのある脚本や小説を生み出していくことになります。
蘭子と八木社長は、どちらも愛する人を戦争で失ってしまったという心の傷を抱えて生きています。そんな大人のふたりがお互いを静かに支え合う姿は、じんわりと胸に迫るものがあります。祝福される愛もあれば、忍ぶ愛、離れた場所から相手を想う愛……。いろんな愛の形があるのではないでしょうか。
結婚だけが、必ずしも幸せになるための方法ではないはずです。蘭子というキャラクターは、多様的な生き方を象徴した存在なのかもしれません。『あんぱん』の最終回、「たまるかー」な展開が待っているのか、気になるところです。
※本文の一部を修正しました。(2025.9.26 11:18)
