ニューヨーク・ニックスvsサンアントニオ・スパーズの対戦となったNBAカップ決勝は、ニックスが124-113で接戦を制し、1973年のリーグ優勝以来となるトロフィーを手にした。
第3クォーターに一時2桁差をつけ、5点リードで最終クォーターに突入したスパーズにとっては悔しい負けとなったが、デンバー・ナゲッツやロサンゼルス・レイカーズ、そして準決勝ではオクラホマシティ・サンダーと、ウエスタン・カンファレンスで上位につける強敵を破って決勝まで到達したことは、6シーズンもプレーオフから遠ざかっているフランチャイズには大きな進歩だ。
しかし試合後の会見で、「この経験から何かポジティブなものを見出せるか?」とフランスメディアから質問を受けたヴィクター・ウェンバンヤマは、「まったくない」と答えた。
左ふくらはぎを痛めて、11月中旬から約1か月間離脱していたウェンバンヤマは、舞台をラスベガスに移した準決勝のサンダー戦で復帰。ベンチスタートながら約20分のプレータイムで22得点にチーム最多の9リバウンドの活躍で、王者相手の逆転勝利に貢献した。
迎えたニックスとの決勝もシックスマンとして約25分間コートに立ち、18得点、6リバウンド、2ブロックと奮戦。ただ、インサイド勝負という点では、相手のビッグマン、カール・アンソニー・タウンズに11リバウンド、ミッチェル・ロビンソンに15リバウンド(うちオフェンシブ・リバウンド10本)を許した。
だが、彼が「まったくない」と答えた真意は別のところにあった。ウェンビーは「それとは関係ない」と付け加えると、彼が前向きなものを見出せなかった理由は、この試合の日の朝、肉親の訃報を受けたからだと続けた。
「今日、とてもつらい出来事があった。とても近しい人を亡くしたんだ…。だから、今はこの試合からポジティブな面を見出すことはできない」
消え入りそうな声でそう絞り出すと、込み上げてくる涙を押し殺そうとするかのように、ウェンビーはしばしうつむいた。報道によれば、亡くなったのは彼の祖母だったようだ。
思い起こせば、ウェンバンヤマがNBAに旅立つ前、母国で最後の試合となった22-23シーズンのフランスリーグ決勝戦後の会見で「アメリカに移住したあと、フランスについて恋しくなるものは?」と尋ねた時、当時19歳だったウェンビーは「食べ物かな」と答えたあと、「それと家族。特に祖父母。彼らはそう簡単にはアメリカに来られないだろうから、今までみたいに会えなくなってしまうからね」と言っていた。
そんな家族思いの彼だけに、遠い異国で訃報を受けた衝撃は相当大きかったことだろう。 ニックス戦の最後、「もう一問だけ答える」と自らうながしたウェンバンヤマは、今度は英語で「この経験からチームは何を学び、ここからどう成長していくのか?」という問いに、次のように答えた。
「重要な試合に向けた最高のプラクティスになったと思う。僕たちはすでにプレーオフを見据えている。プレーオフこそがシーズンで最も重要な時期だから、今日このような経験ができたことは良かったと思う」
NBAカップ終了時点で18勝7敗と4位につけるスパーズにとって、プレーオフは現実的な目的地だ。ウェンバンヤマの言葉通り、シーズン序盤のこの大会でファイナルに到達した経験は、プレーオフでも必ず生かされる。
ラスベガスの会場には、ウェンビー自らが結成したウルトラス集団『ジャッカルズ』のメンバーも参戦した。総勢50人ほどの少数部隊ではあったが、球団が航空券と宿泊代を提供して招いたのだという。彼らにとっても、この遠征はプレーオフに向けての格好の予行練習になったことだろう。
トロフィーは逃したが、チーム、サポーターともに経験値を積み上げたスパーズの、ここからの戦いに期待したい。
文●小川由紀子
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