
クリスマスの苦しみを科学します。
12月、イルミネーションは本来ただの電球なのに、なぜか「誰かと手をつないで歩くための舞台」に見えてしまう。
コンビニの棚に並ぶ小さなケーキですら、ふだんのデザートではなく「ふたりで分けるもの」に見える。
予約サイトを開けば「二名様から」の文字が静かに点滅し、SNSを開けば、同じ角度のツリー、同じようなプレゼント、同じような「幸せそうな二人」が流れてきます。
仕事や勉強はいつも通りに回っていて、普段はひとりでも平気なのに、この夜だけは胸の奥がざわつく。
誰かと比べたいわけではないのに、孤独は慣れているはずなのに、なぜクリスマスは苦しくなるのでしょうか?
今回はそんなクリスマスの苦しみに科学的観点からメスを入れていきたいと思います。
目次
- クリスマスイブの残酷さ——「理想の相手は恋人」が8割
- クリスマスぼっちの『公開処刑感』と社会学
クリスマスイブの残酷さ——「理想の相手は恋人」が8割

数字はたまに残酷です。
恋愛マッチングサービス「Omiai」が2017年に利用ユーザー男女885人を対象に実施した調査では、「今年のクリスマスは誰と過ごしたいですか」という問いで、約8割が「恋人/好きな人」と答えたと報告されています。
ですが、ここで語られているのが「理想」に過ぎず「現実」ではありません。
日本の婚活企業IBJが2018年に20〜50歳の独身男女924人を対象に行った調査では、男性の約7割、女性の約4割が「一人」と回答しています。
現実は過酷です。
こんな数字を見ると「7-4=3ってことは、男性の3割は架空の恋人と過ごしているのでは?」という頭の悪い計算(ツッコミ待ち)すら、寂しく思えてきます。
(※実際は女性のほうが「恋人」をはじめ「家族」「友だち」「職場の仲間」と過ごす割合が高いというだけの話です。)
また同じIBJの調査では、クリスマスに抱く感情として「楽しい気持ち」39.4%、「幸せな気持ち」10.4%に対して、「寂しい気持ち」32%、「焦る気持ち」13.7%、「悲しい気持ち」4.4%と、明るい側と暗い側がほぼ半分に割れていました。
もちろん、こうした恋愛マッチングサービス会社による調査は母集団が偏っている可能性があり、全国民の平均と言い切ることはできません。
それでもこの数字は、クリスマスイブが「恋人がいて当然」「恋人と過ごして当然」という空気を、かなり強い圧で押し出していることを示唆する、ひとつの文化的サインとも言えるでしょう。
そしてこれがクリスマスの苦しみの正体を解き明かす大きなヒントになり得ます。
多くの人々はクリスマスの苦しみは「寂しさ」や「孤独」が原因だと思うかもしれませんが、それならば特に「クリスマス」に苦しみを感じるのは不思議にも見えます。
フィンランドを対象にした社会学の査読研究では、クリスマスは、独り身であることがとくに強く感じられる「感情のピーク」になりやすいことは認めていても、その背景には、単身状態がいつもより過剰に可視化される仕組みがあると述べています。
その研究が扱った社会では、クリスマスなどの祝日は「家族や大切な人と過ごす時間」として想定され、街も広告もSNSもその想定に合わせて動きます。
そのため祝日や休日は独り身であることがいつもよりも「過剰に可視化」されうると指摘しています。
この発想が鋭いのは、「独り身=常に寂しい」という雑な決めつけを否定してくれる点です。
論文中の証言例でも、金曜日の夜は最高でも、日曜の夜はつらい、というように、同じ人の中で感情が日付によって反転する。
その揺れは、個人の意志よりも、周囲の“前提”の切り替わりに引っ張られて起きます。
つまり、クリスマスが苦しいのは「一人だから」ではなく、「一人であることが、社会全体の照明で照らされるから」です。照明が強いほど、影も濃くなります。
クリスマスぼっちの『公開処刑感』と社会学

ここまで見てきた「クリスマスのしんどさ」の裏には、「カップル規範」と呼ばれる考え方があります。
これは「みんな恋人がいて当たり前だよね」という軽いノリではなく、「大人になったら誰かとカップルになるのが普通でしょ」と社会の側が決めている前提のことです。
Roseneilらが編集した『The Tenacity of the Couple-Norm』(2020)は、カップルであることが、法律や社会制度、政策、ふだんの生活の習慣にまで深くしみ込んだ“制度的な当たり前”として続いている様子を詳しく描いています。
カップル規範は、「恋愛が好きか嫌いか」といった個人の好みではなく、「そろそろ恋人つくらないの?」のような期待から、「結婚して一人前」といった命令に近いメッセージまで、いろいろな強さのサインがグラデーションになって人を動かし、結果的に人生の進み方を形づくるものだと整理されています。
そして別の書評は、このカップル規範が、「カップルであること」を“普通で立派な大人”になるためのメインルートとして持ち上げてしまう、とまとめています。
つまり、「ちゃんとした大人=誰かとカップルになっている人」というイメージを、社会全体で強くしてしまうのです。
この視点であらためてクリスマスを眺めてみると、イベント期の痛みは単純な「寂しさ」よりも、「自分が採点されている感じ」に近いと考えられます。
恋人がいる/いないは、ただの現在の状態ではなく “人としてどのくらい評価されるか”に結びつきやすいように感じられます。
これが、反感や嫌悪の大きな燃料になります。
つらさの中心にあるのも、やはり孤独そのものというより、「カップルでいろ」という命令に従っていない自分が、みんなの前にさらされてしまう感じです。
言い換えれば、カップル前提の舞台の上に一人だけ立たされる“公開処刑感”です。
この構造は、クリスマスにだけ起こる特別なものではありません。
2006年の米国の消費者研究であるCloseとZinkhanの研究は、バレンタインデーが「みんなにとって甘くて幸せな日」ではないことを、かなり率直に描いています。
バレンタインは、一部の人にとっては「自分が独り身であること」をわざわざ思い出させる“歓迎されないリマインダー”になります。
また、「プレゼントやディナーにお金を使うことが、愛情を証明することだ」と社会から求められる日でもあります。
その結果、バレンタインは人によって、恋愛の高揚感やうれしさだけでなく、義務感、自己嫌悪、自分も相手も嫌になるような嫌悪感のきっかけにもなりうる、と指摘されています。
以上をまとめると、クリスマスへのネガティブな感情は、「自分だけ寂しい」という一点だけでは説明できません。
ふだんはそこまで気にならなくても、クリスマスのような“本当は誰かと一緒に過ごすはずの日”になると、社会全体の時間割が一斉にカップル基準へと寄っていき、独り身でいる人や、その枠から少し外れている人の存在が強く浮かび上がります。
さらにカップル規範は、「恋人がいること」が「普通で立派な大人」へのわかりやすい道だというイメージを支え、クリスマスのようなイベント期には、その評価の回路をこれでもかと見せつけます。
ある意味で、クリスマスの苦しみは、個人のせいではなく、社会が作った「カップル前提の脚本」が、一時的に音量を最大まで上げる現象だと言えるでしょう。
この仕組みを理解していれば、もしクリスマスやバレンタインなど「社会の目」を意識させる時期が巡って来ても、苦しみは自分から出たものではなく外からのものだとふっきることもできるかもしれません。
元論文
Affective Intensities of Single Lives: An Alternative Account of Temporal Aspects of Couple Normativity
https://journals.sagepub.com/doi/abs/10.1177/00380385221090858
A Holiday Loved and Loathed: A Consumer Perspective of Valentine’s Day
https://angelineclose.com/wp-content/uploads/2011/02/Loved-and-Loathed.pdf
The Tenacity of the Couple-Norm
https://uclpress.co.uk/book/the-tenacity-of-the-couple-norm/
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部

