
「シュレーディンガーの猫」(シュレーディンガーのねこ、シュレディンガーの猫とも)というワードは、「量子力学」よりも検索数が多いようです。
ここからは、ほとんどの人が「シュレーディンガーの猫」をきっかけに量子力学に興味を抱いていることが伺えます。
しかし、多くの人はこの話を調べてみてもわかったような、わかんないような感じでモヤッとしているのではないでしょうか?
その原因の1つは、多くの人が「観測するまで物事の状態が確定しない」という問題と、「見るまで答えがわからない」という問題をごちゃごちゃにしているからかもしれません。
実はシュレーディンガーの「観測するまで物事の状態が確定しない」という量子力学の主張はおかしいと指摘するために、この2つの考え方をあえて混同させるよう猫の実験をデザインしました。
だから、ここがごちゃごちゃの人はいつまで経っても意味がわからないことになってしまいます。
今の時点でも、「え? その2つは何が違うの?」と思っている人がいるかもしれません。
ここでは、「シュレーディンガーの猫」を聞いてモヤモヤしている人向けに、これを解消する解説をしていきます。
目次
- 「観測するまで状態が確定しない」ってどういうこと?
- シュレーディンガーが嫌った量子力学
- 「シュレーディンガーの猫」は実際やっても意味がない実験
↓↓この記事の動画解説
「観測するまで状態が確定しない」ってどういうこと?

「シュレーディンガーの猫」というのは、物理学者エルヴィン・シュレーディンガーが頭の中だけで行った実験(思考実験)です。
ほとんどの人はこの話しの内容を、「一定確率で毒ガスを放出する装置と一緒に箱に入れられたネコは、蓋を開けて観測するまで生きた状態と死んだ状態が重なり合っている」という風に聞いていると思います。
そして、その意味するところは「観測するまで物事の状態は確定しない」という量子力学の奇妙な考え方を説明するものだと知っているでしょう。
しかし、そもそも量子力学はどうしてこんな不思議な考え方をするようになったのでしょうか?
最初のモヤモヤポイントとして、まず「観測するまで物事の状態は確定しない」という考えの登場した経緯を見ていきましょう。
20世紀のはじめ、物理学者たちは光や電子が粒子として見ても、波として見ても、どちらでも成立してしまうという不思議な問題にぶつかります。

粒子と波、これは古典物理学(私たちが学校で習う普通の物理学)から見た場合、まるで異なる性質のためどうやっても同時に成り立たせることはできません。
そこで物理学者たちはこの問題を成立させるために、それまでの物理学を捨て去りまったく新しい理論を作り直したのです。
これが量子力学です。
そのため「量子力学」は物理学の1分野でありながら、私たちが知る物理学とは何から何まで考え方が異なります。
特に大きな違いが、量子力学は頭に思い描けるような基本的なイメージがないということです。
量子力学は私たちの目には見えない非常に小さな世界を記述する学問です。そのため視覚的なイメージというものを本来持っていません。
しかし数学者を除けば、ほとんどの人はイメージできないことを考えるのが苦手です。それは物理学者も同様でした。
そこで物理学者たちは、量子力学の抽象的な世界を馴染み深い古典物理学の視覚的なイメージに置き換えて説明しようと頑張りました。
そうして誕生したのが、原子核の周りを衛星のように回る電子のイメージや、電子が自転するスピンのイメージ、光が波になったり粒子になったりするイメージです。

しかしこれらの視覚的イメージは、厳密には正しくありません。
だから、量子力学の問題では、現象をどのように解釈するかで、さまざまな議論が起きるようになりました。
私たちが漫画やアニメの話しをするときだって、解釈の仕方でよく口論が起こるのですから、これは当然のことでしょう。
では、物理学者たちは光や電子が波と粒子という2つの性質を同時に持つ問題を、どの様に解釈したのでしょうか?
理論物理学者ニールス・ボーアは、これについて次のような考え方を示しました。
「どういった観測の仕方をするかが、光の波動、粒子いずれかの性質を決定している」
つまりボーアは光を、粒子として見ようとするか、波として見ようとするかで、どっちの性質に見えるか決まると言ったのです。
そんな考え方ズルいと思う人もいるかもしれません。実際ボーアの弟子だったハイゼンベルグも「そんな説明でいいなら苦労しないよ」と親友のパウリに愚痴ったそうです。
しかし、これが後に洗練され、私たちにとって馴染み深い量子力学の考え方になるのです。
それが「観測するまで物事の状態は確定しない」という考え方です。
つまりこの考え方は、光が粒子と波という、古典物理学では全く異なる2つの性質を同時に持つ方法として必要なものだったのです。
この奇妙な考え方は、提唱したボーアが祖国デンマーク・コペンハーゲンの研究所のボスだったことから、後にコペンハーゲン解釈と呼ばれるようになります。
しかし、当時この考え方に猛反対した大物物理学者たちがいました。
それがアインシュタインやシュレーディンガーです。
え? シュレーディンガーはこの考え方に反対だったの? という人がもしかしたらいるかもしれません。
次項では、この点について考えていきましょう。
シュレーディンガーが嫌った量子力学
シュレーディンガーの猫の話を聞いてモヤモヤしている人は、おそらく「観測するまで物事の状態は確定しない」という問題と、単純に「見るまで答えがわからない」という問題の違いが、自覚できていない可能性があります。
シュレーディンガーの猫は、この2つの考え方をあえて混同させることで量子力学の主張がいかに奇妙かを強調しようとしているので、ここが曖昧なままでは理解することができません。
そのためもう少し掘り下げてこの点について考えてみましょう。
まずこの問題をわかりやすくするために、簡単な例えを考えてみます。
ある箱の中に赤いボールか青いボールのどちらかを入れたとしましょう。これはまったくランダムに誰の手を介することなく誰にも気づかれずに入れるとします。
このとき、この箱の中には何色のボールが入っているでしょうか?
アインシュタインは「当然、それは赤か青のどちらかに決まっている」と答えます。
「わからないのは私たちにそれを決定するための情報が不足しているからであって、箱の中身は最初から決まっているはずだ」というのが彼の解釈です。
つまり「観測するまで答えはわからず確率でしか言えないが、正解は最初からこの世界に存在している」というのがアインシュタインの考え方です。
ところが、ボーアは「箱を開くまでボールの色はこの世界で決定されておらず、開いて観測した瞬間に青(または赤)に確定する」と言っているのです。
そのためボーアは、箱の中身を赤と青のボールが50%混合した状態だと表現します。

何の仕掛けもないのにころころと色が変化するボールなんてあるわけがないので、これはおかしな理屈だということは理解できるでしょう。
この場合、アインシュタインがいかに当たり前のことを言っていて、ボーアがどれほどおかしなことを言っているかがよく分かると思います。
もちろんこれはマクロなボールの話であって、量子論の解釈を説明する上で適切な例だとはいえません。
しかし、アインシュタインはシュレーディンガーへ宛てた手紙の中で、似たような例えを使ってボーアの考えを批判しました。
「翌年中に爆発する不安定な火薬樽があったとして、それが一年後、爆発した状態と爆発していない状態の中間だなんて、まともな記述じゃないでしょう。そんな状態の樽は現実に存在していないのですから」
つまり、「私たちの身近な出来事として考えたら明らかに辻褄の合わないおなしな理屈なのに、量子力学ではそれが成り立つというのは変じゃないか? なにか重要な点を見落としているんじゃないか?」というのがアインシュタインの考えだったのです。
そして同様の意見を持っていたシュレーディンガーは、この手紙に書かれた量子力学の奇妙な振る舞いを、マクロな世界に置き換えた例え話をとても気に入ったのです。
マクロな世界と量子の世界はまるで異なる世界だけれど、もしこの2つ世界の現象を繋げることができたなら、コペンハーゲン解釈の問題点を指摘できるじゃないか!
そう考えたシュレーディンガーは、この手紙の例え話を参考にして、翌年に「シュレーディンガーの猫」という思考実験を考案して発表したのです。
このときシュレーディンガーは、猫の生死が観測の瞬間に決まっているのではなく、私たちがわかっていないだけで箱の中ではすでに決定されているはずだと考えていました。
しかしコペンハーゲン解釈に従うと、箱の中の猫は生きている状態と死んだ状態が50%の確率で重なり合っており、箱を開けるまで確定しないことになります。
つまり「シュレーディンガーの猫」とは、ボーアの「観測するまで物事の状態は確定しない」という主張に対して、こういう実験をすると箱の中の猫が生きている状態と死んでいる状態で重なりあうことになってしまうよ? 「そんな馬鹿なことあるわけ無いよね?」単に「見るまで答えがわからないだけだよね?」と否定するつもりで考え出されたお話しなのです。
だからこの話しはほとんどの人から見て、「これって本当の話なの? そのまま信じてしまっていいの?」と疑問を抱かれるように作られています。
ところが、おそらく多くの人は、この実験の説明で、箱の中の猫は「生と死が重なり合った不可思議な状態になっている」と聞いているのではないでしょうか。
つまり、現代の人がこの話を聞く時は、シュレーディンガーの意図とはまったく逆の意味で説明されているのです。
だから、現代の多くの人は、シュレーディンガーの猫の説明を聞いたとき、なんだかわかったようなわからないようなモヤモヤした感覚を受けてしまうのです。
ではなぜ現代では、シュレーディンガーの意図とは逆の意味で、シュレーディンガーの猫の話しが使われるようになってしまったのでしょうか?
次項では、「シュレーディンガーの猫」という思考実験のオチが、もともとの意味とは逆になってしまった理由を解説します。

