「シュレーディンガーの猫」は実際やっても意味がない実験
ここで、シュレーディンガーの猫という思考実験が正確にはどういう内容だったのか見てみましょう。
【1匹の哀れな猫が鋼鉄の箱の中に悪魔的な装置と共に入れられています。
その装置はガイガー計数管の中に非常に少量の放射性物質を入れたもので、これが1時間後に原子崩壊する可能性は50%です。
ガイガー計が放射線を感知するとハンマーが稼働して青酸ガスの入った瓶を叩き割り猫は死にます。
原子崩壊は極めて量子的な現象で、それは観測するまで確率でしか状態を知ることが出来ません。
量子力学では、1時間後の原子は崩壊した状態と崩壊していない状態が50%で混合した状態と記述されます。
この場合、原子の崩壊に生死の運命を握られている箱の中の猫も、観測されるまで生きている状態と、死んでいる状態が重なり合った不可思議な状態にあるということになります。】

このバージョンの説明では、多くの人が原子崩壊うんぬんという部分にちょっと引っかかるかもしれません。
しかし、ここが量子世界とマクロな世界をつなげるために、シュレーディンガーが考え出した重要ポイントです。
素粒子は物質のもっとも基本的な構成要素のため、それぞれを区別できる個性がありません。
これは同じ数の素粒子から構成される原子核も同様で、それぞれを区別する要素が何もないので原子核には年齢の概念も存在しません。
しかし、まったく同じ物なのに、重い原子核は一定の時間が経過すると原子崩壊を起こします。これはある意味、原子核の寿命が来たと表現することができます。
ある原子核は1時間後に死ぬ(崩壊する)のに、まったく同じもう一個の原子核はいつまで経っても死なない(崩壊しない)場合があるのです。
人間の場合、病気や年齢など寿命に要因が絡みますが、なんの個性も持たない原子核の崩壊は、なんの要因もなく突然起きるためまったく説明することができません。
これが量子力学の困った点で、光が波なのか粒子なのかという問題と同様に、ある1つの原子核が崩壊するかどうかは、見た瞬間に決まっているとしか言えないのです。
つまり「観測するまで状態を決定できない」のです。
シュレーディンガーはこの原子崩壊という確率的な振る舞いを、うまく取り入れた実験装置で、量子の世界の曖昧な状態を猫の死という私たちの目に見える世界の状態へとつなげたのです。
しかし、この実験はそもそもガイガー計数管が原子崩壊を感知した時点で観測が成立しているんじゃないか、という人もいます。観測がいつ成立するのか? というのは未だに議論の分かれる問題です。
ただ、今そこを突き詰めて議論する意味は特にありません。なぜならこの実験モデルが正しいかどうかはさておき、「シュレーディンガーの猫」は実際に実験しても意味がないからです。
なぜならこの実験では一番の争点である、箱の中の猫が生きた状態と死んだ状態で重なり合っているのか、もしくは最初からどちらかの状態に確定されているのか、を判定する方法がないからです。
これではさきほど問題にしていた「観測するまで物事の状態は確定しない」のか、単純に「見るまで答えがわからない」だけなのか、どちらが真実か明らかにすることはできません。
なので、結局シュレーディンガーの猫は「話しとしては面白いけど、ただの哲学問答だよね」と徐々に忘れ去られていってしまったのです。
では、なぜこんなに現代でシュレーディンガーの猫がもてはやされることになったのでしょうか?
実は、これを本当に最初から状態が決まっているか、見た瞬間に決まっていたのか、検証する実験方法を考えついた物理学者が登場したのです。
その人物こそ、CERNの理論物理学ジョン・スチュワート・ベルです。

彼はシュレーディンガーの猫の箱の蓋をこっそり覗いて猫の状態を確かめる方法を考え出したのです。これはベルの不等式と呼ばれています。
ベルの不等式の内容を簡単に説明するなら、色んな角度でこっそり箱の中を覗いて、猫が生きているように見えたか、死んでいるように見えたかを記録して数えたとき、初めから状態が決まっていた場合と、見た瞬間に状態が決まった場合では、このカウント数のばらつき方が異なるというものです。
ベルの功績はこのことを数学的に証明したことです。
(※実際に彼が考案したベルの定理(ベルの不等式)は、アインシュタインらが考案したEPR実験(のボームが改良したバージョン)において、電子のスピンをこっそり観測し、自転の向きをカウントするというものでした)
そして1980年代に、フランスの物理学者アラン・アスペがこのアイデアを元にした実験で、「観測した瞬間に物事の状態が決定される」というコペンハーゲン解釈の方が正しいことを証明します。
(追記:アラン・アスペはこのときの成果から2022年ノーベル物理学賞を受賞しました)

これらの経緯や実験は現代の量子力学の進展に非常に重要なものでしたが、ほとんどの人には理解することが難しいお話です。
そのため非常にわかりやすい例え話「シュレーディンガーの猫」が、再び返り咲くことになったのです。
「シュレーディンガーの猫」を例えに使えば、蓋を開けて覗いた瞬間に、猫の生死は決定されていて、それまでは状態が決まっていなかったと証明できたんですよ、と説明することができます。
もちろん、これは量子世界の出来事をマクロな世界につなげて考えていいと言っているわけではありません。これも理解を難しくしている点かもしれません。
そもそも量子力学とは目で見ることが不可能な世界の話なので、当然私たちが頭に映像として思い浮かべることの出来る視覚的イメージを持ちません。実際はすべて数学だけで表現される世界です。
なので、根本的な問題として、量子力学の視覚化されたイメージはすべて間違っています。
ここまで聞いて、まだモヤモヤしてるという人もいるかもしれませんが、もっと明瞭に理解したいというのであれば言葉や視覚イメージは使わずに数学で理解していくしかありません。
もちろんそんなこと出来る人は殆どいませんし、何より歴史的に物理学者たちは視覚化できない抽象的な問題が嫌いでした。なぜなら物理学は現実で起きた目に見える現象を解き明かすために生まれた学問だからです。
だから、これは長い歴史の中で物理学者たちがイメージの難しい問題に視覚的イメージをなんとか与えて説明しようと努力してきた結果でもあるのです。
だからこそ、シュレーディンガーの猫は多くの人々に愛され、関心を持たれる逸話となっています。
たとえそれが、シュレーディンガーの意図とは真逆の使い方だったとしても。
そんな紆余曲折があったからこそ、シュレーディンガーの猫はわかりやすい解説であると同時に、なんか釈然としない話にもなっているわけです。
ここでは省略しましたが、シュレーディンガーが量子論の確率解釈を嫌った理由や量子力学の考え方がどのように発見されたかの詳しい経緯についてもっと知りたい人は、下の記事を読んでみてください。
【編集注 2022.10.06 11:30】2022年ノーベル物理学賞の発表に際して、一部を加筆修正。 【編集注 2025.12.26 13:00】
一部の説明を加筆修正しました。
参考文献
量子革命: アインシュタインとボーア、偉大なる頭脳の激突 (新潮文庫)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4102200819
詩人のための量子力学―レーダーマンが語る不確定性原理から弦理論まで
https://www.amazon.co.jp/dp/4826901739
ライター
海沼 賢: 大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。
編集者
ナゾロジー 編集部

