
イギリスのヨーク大学(UoY)のPitcher氏らによるレビュー論文にて、人間の脳には、相手の表情や動作から「その人の意図や感情(気持ち)の手がかり」を読み取るための、第3の視覚経路が存在する可能性が示されました。
ここでいう「読み取り」とは、相手の頭の中を直接のぞき見る超能力的な意味ではなく、もっと馴染み深いものです。
教室に入った瞬間に、友達の目線の揺れや笑顔の立ち上がり方から「今は話しかけてもよさそうだ」と判断するような、あの“空気感”の読み取りです。
なぜ人間は空気感を読む専用の脳回路を進化させたのでしょうか?
研究内容の詳細は2025年12月10日に『arXiv』にて発表されました。
目次
- 視覚は2ルートのはずだった
- 空気読みは目で起きる?脳の「第3ルート」仮説
視覚は2ルートのはずだった

科学の教科書では長らく、人間の視覚には2つの経路が基本モデルとして説明されてきました。
一つは、物体が「何であるか」を見分けるルートです。
もう一つは、物体が「どこにありどう動くか」を扱うルートです。
この二重の視覚モデルは視覚脳研究の基本となり、実際に脳損傷の症例でも「物は認識できるが位置がわからない」患者とその逆の患者が報告され、2経路の存在が支持されてきました。
しかし視覚情報は本当にこの2経路のみが全てを担当しているのでしょうか。
たとえば教室に入った瞬間、友達の表情やしぐさから「今話しかけても大丈夫かな?」と察した経験は誰にでもあるでしょう。
このような視覚から「人の意図や感情(気持ち)」を読み取る能力――いわゆる「空気を読む力」は誰もが知るところです。
ここで重要なのは、空気を読むとき私たちが見ているのが、顔の“形”そのものというより、顔がどう変わっていくか、つまり表情の変化や視線の動きといった「流れ」だという点です。
物体が「何であるか」、「どこにありどう動くか」という既存の2経路だけで、この「流れ」から人の心の状態を推測するのは、少し無理のある話に見えてきます。
今から40年ほど前に行われた古い研究でも、そのヒントとなる現象が記録されています。
脳の損傷で顔が誰だかわからなくなる「相貌失認(顔盲)」の患者において、知人と他人の顔写真では皮膚電気反応(汗などに伴う反応)が違って出るという不思議な現象が報告されたのです。
本人は視覚的にそれが誰か意識できなくても、体は何かを感じ取って反応していました。
この事実は、顔を「誰か」として見分ける通常ルートとは別に、顔から“社会的な意味”を受け取るルートがあるのではないか、と当時の研究者に推測させました。
そこで近年の研究では「人間の視覚に他人の意図を読み解く第3の経路があるのではないか」という仮説を、より直接的な形で検証することにしました。
もしそのような経路が本当に存在するなら、そこが壊れた人では、写真の表情は読めても、空気感を左右するような“動きのある表情の変化”が読み取りにくくなるかもしれません。
空気読みは目で起きる?脳の「第3ルート」仮説

空気感を感じるための第3の経路は存在するのか?
この謎を解明するにあたりインドのクリスチャン・メディカル・カレッジ(CMC Vellore)と、オーストラリアのメルボルン大学(The University of Melbourne)などの共同研究が大きな役割を果たしました。
この研究では局所的な脳損傷のある108名を対象に、2種類のテストを実施しました。
一つは静止画の顔写真から感情を当てるテストで、もう一つは短い動画で映る顔から感情を当てるテストです。
写真のテストは5つの選択肢から、動画のテストは6つの選択肢から、その人が表している感情を選んでもらいました。
ここで問われているのは、「顔が見えるか」ではなく、「顔が変化していく様子から、いまの気持ちを読み取れるか」という点です。
つまり、空気感の材料になりやすい“変化の読み取り”を、できるだけ素直な形で測ろうとした実験だと言えます。
結果は、研究者たちの狙いをはっきり映すものでした。
損傷が側頭葉の上側頭溝(STS:脳の側面にある溝)の後部(pSTS:後ろ側)付近に及んでいたグループでは、「動いている顔」の感情認識が大きく低下していたのです。
一方、後頭側頭部の腹側(下側)の顔を見分けるのに関わる領域付近が損傷していたグループでは、「静止画の顔」の感情認識が著しく低下し、「動いている顔」の認識は比較的保たれていました。
つまり脳の損傷場所によって、「動画の表情のほうが理解しにくい」人と「写真の表情のほうが理解しにくい」人が現れたのです。
写真でも動画でも映っている人が同じなら変わらないように思えますが、脳にとっては、止まっている顔は“名札”、動いている顔は“実況”のように、別の読み方が走っている可能性が浮かび上がったわけです。
そして空気感に近いのは、名札よりも実況のほうです。
Pitcher氏の総説ではこの結果を重要な証拠として扱い、動いている顔の読み取りが崩れる場所が見つかったことは、「空気読み」を支える視覚の回路が従来の2本とは別に存在する可能性があるという考えを支持するものだと捉えています。
もしこの「第3経路」仮説が正しければ、社会的コミュニケーションの困難さを抱える人々への新たな光となるかもしれません。
実際、一部の研究では自閉スペクトラム症や統合失調症などで、第3の経路に含まれるSTSの働きが弱い、または通常と違う形で働いている可能性が報告されています。
「空気を読むのが苦手」という特性も、もしかすると脳内のこの社会的視覚回路の結線や感度の違いで説明できる可能性があります。
将来的には、第3の経路の状態を指標にして発達障害の理解や社会技能トレーニングに役立てる、といった応用も考えられるでしょう。
もしかしたら未来の世界では、脳の「空気読み回路」の働きをうまく支える方法が見つかり、今よりスムーズに空気を読める人が増える時代が訪れているかもしれません。
元論文
The Third Visual Pathway for Social Perception
https://doi.org/10.48550/arXiv.2512.09351
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部

