対話で偶然生まれた初めての言葉に出会えた喜び
――第二部は、永井さんの読書体験をなぞりながら、そこで出会った言葉を紐解(ひもと)いています。
永井 頭木さんの読書体験をお伺いしたいです。
頭木 僕が本を読むようになったのは二十歳で難病になってからで、それまではぜんぜん読んでいませんでした。永井さんは詩や文学に育てられてきたとのことですが、どういうふうだったんでしょう。僕にはそういう子ども時代の経験がなくて。
永井 わたしにはもう本しかなかったんです。川下りとか花火とか、みんなが幼少期にやるような経験が人より少なくて、代わりに本だけがある子どもだったから、ある意味孤独でした。世界が耐え難かったから本を読んでいたともいえます。最近よく思い出すのが、大変な状況にある子どもと一緒に過ごしている友達が言っていたことです。その子どもが友達に「あのね、僕の家の隣の室外機からロサンゼルスの音がするんだよ」と言うので、「ロサンゼルスの音ってどんな音?」と友達が聞いたら、「アメリカの音だよ」って。たったそれだけなんですが、すごくよくわかる。つまりロサンゼルスの音というのは、彼にとってここではないどこかの音であり、でも魔法の国とかではなくて室外機から聞こえる音だと夢想している。それがわたしには本のような感じがするんです。ここではないけれど、まったく別の場所ではない何かとしての言葉や本の世界。そういうものが自分には必要だったんだと思いますね。
頭木 僕は子どものころ、自然の豊かなところに暮らしていたせいか、本を読もうとしても、本の中の世界では風も吹いていない、虫もはっていない、鳥や獣も鳴いていないと、なんだか書いてないことばかりが気になって、入りこめませんでした。本には現実のごく一部しか描かれていなくて、現実のほうが豊かな気がして。でも病気になってから読んでみると、文学は、言葉にならない現実をどうにかして言葉にしようと頑張ってくれている場だと感じて、「文学がなかったら困る。なんて大切なんだろう」と初めてわかりました。
永井 現実の一部しか本には描かれていなかったというのは面白いですね。いまもそんなふうに感じられることはありますか?
頭木 いまは逆に、本の中にないものは気にならないです。そこで初めて何が言葉になっているか、どういう現実が初めてとらえられているか、ということがいちばん大事だと思っています。
永井 対話の中では、この瞬間に偶然言葉になっちゃったというところに出会うことが本当に多い。生まれたての言葉に出会えるんですよね。
世の中は不条理なもの、とカフカが教えてくれた
――第二部でも文学の言葉がたくさん引用されています。頭木さんは『絶望名人カフカの人生論』を編訳されたほどカフカがお好きですが、永井さんも「恥辱だけが」の章で、カフカの『審判』の一節を書き写したと書かれています。
頭木 僕の場合、本を読み始めたきっかけがカフカだったんです。突然難病になって、病院のベッドで寝ているしかなくなったとき、カフカの『変身』を思い出したんです。突然虫になって部屋から出られなくなるのは今の自分と同じだと。中学生のとき夏休みの読書感想文のために読んだことがありました。いちばん薄い文庫本だったから選んだだけなんですが。そのときは不思議な小説だと感じたように思いますが、入院中に再読してみると、不思議どころか、ドキュメンタリーだと思いました。自分のこと、周囲のことがじつに正確に書いてありました。もうびっくりして、文学ってこんなにすごいものだったのかと思いました。
永井 カフカの作品にはどこか「ほんとうのこと」が書いてありますよね。本にも書きましたが『審判』を読んで、カフカに「世界には訳のわからないことがとにかくたくさんある」とはっきり言ってもらえた感じがあった。それは本の中だけでなく、わたしたちの生きる社会も同じ。だからといって正解があっても困るし、そのほうがしんどいはずです。カフカが書いている不条理な世界のありようは、「いや、世界ってこういうものだから」「これが正解だから」というものを突き崩してくれる。それはすごい絶望であり希望でもあるから、何度でも引用してしまうんです。
頭木 『変身』も『審判』も、もう一行目からすごいですもんね。虫になったとか、理由はないけど逮捕されるとか。
永井 頭木さんの『絶望名人カフカの人生論』は出てすぐ読みましたよ。当時ずっとバッグに入れて持ち歩いていました。
頭木 なんと。それは嬉しいです。

