まもなく迎える2026年の干支は午(うま)。十二支と十干を組み合わせた60年周期の「六十干支」では「丙午(ひのえうま)」にあたる。この丙午、女性に対する差別的ともいえる“迷信”が存在し、前回の1966年には、出生率の急激な低下など大きな社会的な影響を与えた。
前回は出生率が大幅低下……60年ぶりの丙午はどうなる?
丙午は十二支の午年と十干の丙年が重なる60年に1度の年。午は馬、丙は火や太陽を意味し、“火の馬”という情熱的で力強いイメージを想起させる。
ひるがえって、今よりもさらに男尊女卑であった時代には、女性にとってマイナスにはたらくイメージもあった。馬と火はともに“陽”の性質を持つとされており、これが巡り巡って「この年に生まれた女性は気性が荒い」「夫の運気を食い尽くしてしまう」「男を不幸にする」などの“迷信”が誕生してしまったのだ。
この迷信を広める最大のきっかけになったといわれるのが、丙午に生まれたとされる青果店の娘・お七が、恋人に会う目的で放火事件を起こして死罪になるストーリーの『八百屋お七』だ。江戸前期、井原西鶴が『好色五人女』にてこの話を書いたところ、丙午の女性に対する偏見が一気に定着したと言われている。
いわば迷信なのだが、世の女性への影響は大きく、1927年3月7日の読売新聞では「縁談に破れ 丙午女死す」と痛ましい自死の報道が記事になっている。そして1966年には、かの有名な「丙午ショック」と呼ばれる出生数の急落が発生。
高度経済成長で右肩上がりに子どもが増える中、“丙午の女性”を産まないようにと出産を控える夫婦が相次ぎ、出生率は当時最悪の1.58、出生数は前年比約25%減の約136万人を記録した。
これは、前年1965年の出生数が約182万人、翌1967年が約194万人という数字からも、明らかに“そこだけ下がっている”ことが分かる。エビデンス重視が叫ばれる現代からは馬鹿げた話だが、当時の人々は丙午の迷信を大マジメに信じていたのだ。
前後に比べて著しく数が少ないうえ、生まれた時から迷信を背負わされるなど、さまざまな面で独特といえる丙午世代。いったいどのような特徴を持つのか、数が少ないゆえの“あるある”などはあるのだろうか。
前回の丙午である1966年に生まれた、元読売テレビアナウンサーで京都産業大学現代社会学部教授の脇浜紀子氏に実体験を尋ねた。
クラス数が少なく、受験が有利なんて説も……丙午の“あるある”
自己紹介やプロフィールに用いるなど、丙午であることを積極的に打ち出していたと語る脇浜教授。理由は非科学的な迷信への“アンチテーゼ”で、これはある程度、丙午世代に共通している印象があるそうだ。
「自己紹介では『丙午です!』と自虐みたいに使っていて、読売テレビ時代のプロフィールにも、自分から丙午だと書いていたと思います。やっぱり丙午って覚えてもらいやすいですし、プライドというかアイデンティティのような部分もあるんですよ。
結局、丙午の迷信って“女性は結婚して家庭を支える、男性の付属物”みたいな風潮の上にあったわけですよね。女性は結婚して幸せを得るものだっていうステレオタイプがあるから、『丙午に生まれた子どもが女の子だったら可哀想』と親たちは産まなかったわけで、馬鹿馬鹿しさの極地ですよ。でも、あのときの親世代にとっては、別に馬鹿馬鹿しいことではなかった。
そういったものに対するアンチテーゼから、あえて『私たちは丙午よ!』と名乗ることで、“昔のしがらみや迷信には囚われないんだ!”“そんな時代終わったでしょ?”と押し出すような、そういう気概に繋がっていた部分は、この世代には少なからずあるような気がします」(脇浜教授、以下同)
そのほか、丙午の“あるある”にはどんなものがあるのだろうか。
「数が少ないので、同い年と分かったときの親近感は、他の世代よりも強いと思います。学生時代でいうと、だいたい小中高と45人学級で15クラスくらいあって、私の代だけ他の学年よりクラスが少なかったですね。出生数からも、それが全国で起こっていたんだろうなと思います。
ニュースとか世間では、数が少ないぶん受験の倍率が低いなんてことも言われていました。実際、私が高校入試のときには『定員割れだったんじゃないの』なんて言われましたし、自分で競争が楽だと思ったことはありませんが、周りの話だと、もしかしたら楽な世代だったのかもしれません」
大学時代の就職活動に関しては、幸運にもバブル全盛期と重なっていたそう。丙午だけでなく前後の世代も該当することではあるが、企業側から旅行に招待される学生も多い超売り手市場だったそうだ。

