なぜ“国家”ではなく“企業”が国民服を作れたのか
かつて社会主義国家では、制服や作業着が思想の象徴だった。だがユニクロは、国家ではなく企業がこの役割を担った。
理由は明確で、国家=センスがない、更新能力がない、「ちょうどいい無難さ」を設計できないという3点が挙げられる。
市場競争の中で磨かれた企業だけが「誰も怒らせない最適解」を作れた。ここにあるのは社会主義化ではなく、管理された自由だ。
国民服化は「平等」ではなく「透明化」
ユニクロを着ている人は、平等になったわけではない。むしろ、服から階層が読み取れなくなったため、価値判断が不可視化されたと言える。
これは平等ではなく、差異が見えなくなった状態。社会主義が目指したのは分配の平等だが、ユニクロが実現したのは評価の透明化である。
ユニクロの国民服化は、社会主義への回帰ではなく、「競争したくない」「失敗したくない」「目立ちたくない」という社会主義的欲望を、資本主義が商品として完璧に処理した結果である。
国家が強制しなくても、人々は自ら「無難」を選ぶようだ。
