2025年のワールドシリーズ、ロサンゼルス・ドジャース対トロント・ブルージェイズの7連戦は、「史上最高の戦い」と断じてもいいほど素晴らしい試合の連続だった。
シリーズMVPに選ばれた山本由伸、それに大谷翔平、佐々木朗希と3人のドジャースの日本人選手が大活躍したこともあり、日本でも話題沸騰。朝と昼のワイドショーや夕方と夜のニュース場組でも、各局がワールドシリーズの話題を取り上げ、「少しは日本シリーズも騒いであげてよ」と言いたくなったほどだった。
しかし、それだけ騒がれたワールドシリーズのなかで、おそらく誰も注目しなかっただろうが、きわめて興味深いシーンが存在していた事実を紹介したい。
それは第5戦を終え、ドジャースナインがトロントから専用機でロスに引き返した日の翌日、第6戦に備えて選手たちがドジャー・スタジアムでバッティング練習を始めた時のことだ。
その様子を生中継で映し出したモーニングショーでは、現地のアナウンサーや日本のスタジオにいる出演者たちが、「大谷は打撃練習に出てくるでしょうか?」と騒いでいた。が、私はその時、マイクを手にしてフィールドに立っていたアナウンサーの背後に映し出された風景を見て、思わずニヤリと笑ってしまった。
というのは、ホームプレートを挟んで、大きな緑色のネットのバッティング・ケージが、2つ並んで映し出されていたのだ。
「だからどうだって言うんだ?」と思うかもしれない。だが、メジャーリーグの各チームが、フィールドでバッティング練習をする時は、普通ホームプレートの周囲を一つのバッティングケージで囲み、打者1人、バッティング・ピッチャー1人で行うのが普通なのだ。
NPBで常識的に見られる、2人同時にバッティング練習を行うのは、実は日本オリジナルなのだ。
最近メジャーを取材している記者に聞いたところでは、いくつかの球団が日本式の打撃練習を取り入れているらしい(どれくらいのチームがやっているのか正確な数字は分からないが……)。
これはおそらく、メジャーで活躍する日本人選手が増えたためだろう。しかし私は、メジャーで最初に“日本式2打者同時打撃練習”を取り入れた人物を知っている。
それは、ヤクルトや近鉄で活躍した元助っ人のチャーリー・マニエルだ。
1976年にドジャースから来日して6年間プレーし、通算189本塁打(本塁打王2回・打点王1回)。両チームの優勝にも大きく貢献したマニエルは、アメリカに帰って88~89年にインディアンス(現・ガーディアンズ)の打撃コーチを務めた。その時に日本式打撃練習を取り入れたのだ。
89年、私は日本で封切られた映画『メジャーリーグ』の取材のため、インディアンスの本拠地があるクリーブランドを訪れた。チャーリー・シーンやトム・ベレンジャーがインディアンスの選手に扮して奇跡の優勝に導く痛快映画の舞台となった球団を見学していた。
当然、マニエル打撃コーチにも会って、試合前のフィールドで選手たちの選手の打撃練習を見ながらインタビューに応じてもらった。
「俺は、(バファローズの)西本(幸雄監督)は大好きだった。彼は何でも自由にやらせてくれたからね。しかし(スワローズの)広岡(達朗監督)は大嫌いだった。練習のことだけでなく、食事のことまで細かくウルサく言ってきたからね。通訳が可哀想だったよ」
そんな話を気軽に始めたマニエルだったが、「日本で一番素晴らしいと思ったのが、フィールドでのバッティング練習を2人同時に行えたことだ」と言いだした。
「試合前の打撃練習でも、試合のない時の練習でも、ケージを2つ、バッティング・ピッチャーも2人用意して、2人のバッターが同時に思いきりバッティングできるのは素晴らしいと思ったね。だから、ここ(インディアンス)でも、2人のバッティング・ピッチャーを使って、彼らが打球の危険にさらされないようネットで投手を囲むジャパニーズ・スタイルを取り入れ、2人のバッターが同時にバッティング練習をさせているよ」
神宮球場でインタビューした時は球団職員に付き添われ、仏頂面のままありきたりの答えしか口にしてくれなかったマニエルも、この時は笑顔で自由に離してくれた。
そんなマニエルは、一時クリーブランドを離れるが94年に打撃コーチに復帰。2000年から03年まで監督を務めると、01年には地区優勝。05年から13年まではフィリーズの監督として地区5連覇(07~11年)、08年には世界一も達成している。インディアンス時代の教え子の一人が、現在ドジャースの監督を務める沖縄生まれの日本人ハーフ、デーブ・ロバーツだったのだ。
ロバーツ監督が“日本式2打者同時打撃練習”を取り入れたのは、明らかにマニエルの影響だろう。ひいてはドジャースも、日本式打撃練習でワールドシリーズ連覇に備えたというわけだ。
日本がMLBに与えた影響は意外なところにあった。
文●玉木正之
【著者プロフィール】
たまき・まさゆき。1952年生まれ。東京大学教養学部中退。在学中から東京新聞、雑誌『GORO』『平凡パンチ』などで執筆を開始。日本で初めてスポーツライターを名乗る。現在の肩書きは、スポーツ文化評論家・音楽評論家。日本経済新聞や雑誌『ZAITEN』『スポーツゴジラ』等で執筆活動を続け、BSフジ『プライムニュース』等でコメンテーターとして出演。主な書籍は『スポーツは何か』(講談社現代新書)『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』(春陽堂)など。訳書にR・ホワイティング『和を以て日本となす』(角川文庫)ほか。

