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『火垂るの墓』清太のモデルが明かさなかった「青春の1ページ」 儚く散った初恋の行方とは?

『火垂るの墓』清太のモデルが明かさなかった「青春の1ページ」 儚く散った初恋の行方とは?


ホントはこんな姿はない? 画像は『火垂るの墓』静止画より (C)野坂昭如/新潮社, 1988

【画像】「観た後は駅に行けなかった」という声も 『火垂るの墓』に登場する実在の場所を知る(4枚)

リアル清太はお姉さんとの恋に夢中で妹の世話どころじゃなかった?

 2025年は終戦から80年という節目や、Netflixでの配信、7年ぶりに地上波で放送されるなど、アニメ映画『火垂るの墓』の話題に事欠きませんでした。この作品は、主人公「清太」のモデルである原作者の野坂昭如氏の実体験が元になっているものの、野坂氏が実際に体験したこととは随分とかけ離れていることをご存じでしょうか?

 特に大きく異なるのは、1945年6月の神戸大空襲後に身を寄せた満池谷にある叔母さん宅での扱いでした。妹の餓死という悲劇の裏には野坂氏のはかない初恋の物語が隠されていたのです。

 映画では叔母宅に娘がひとりしかいませんでしたが、原作では4人もいます。初恋相手は当時14歳の野坂氏より2歳年上の三女の京子氏でした。

 また映画の節子は4歳ですが、モデルになった妹の恵子氏は当時1歳4か月でした。残りの姉妹が工場へ動員されているなか、京子氏だけが自宅に住んでおり、兄妹の世話をしてくれていたのです。

 満池谷に流れる小川では蛍やタニシを捕ったり、家庭菜園のキュウリやトマトをかじり合ったりします。断水で井戸から水をバケツに運ぶときも、空襲で防空壕に逃げたときも一緒です。憧れの美人のお姉さんといつも一緒だったら、恋せずにはいられないでしょう。

 野坂氏の気持ちがもっとも昂ぶったのは、京子氏と行く週に一度の映画館通いでした。映画館のなかは、まるで別世界で頻繁に起こる空襲警報も人の目も気にならず、野坂氏と京子氏の気持ちは解放されたそうです。

 一方で、恵子氏に関して著書『アドリブ自叙伝』に掲載された手記「私の小説から」では「実は一年四か月の妹など、ぼくはいつも背負っていたし、時に彼女もかわってくれたのだが、まるで念頭になく、もとより、それを恋と意識はしないまでも、いつ死ぬかわからぬ時代に、またそれだからこそ、きわめて贅沢な青春を、ぼくはひたすら楽しんでいたのだ」と述べられています。

 映画のように居候先を飛び出し兄妹のみで防空壕暮らしをした事実はなく、叔母一家との関係は良好だったようです。1年後の夏、京子氏に会いたいがために満池谷へ再び訪れると、京子氏は既に結婚しており、家を出ていました。野坂氏の初恋ははかなく散ってしまったのです。

 その後、野坂氏は小説家になると処女作『エロ事師たち』では主人公の娘を恵子と名付け、小説のなかで心やさしく美しい女性に京子という名前を付けました。また、その後に恋する女性は必ず2歳年上であり、京子氏への思慕がずっと消えなかったことが窺えます。しかし、それほどまでに思いが強かった京子氏をモデルにした小説をなぜ執筆しなかったのでしょうか?

 野坂氏の昭和44年の手記「私の小説から」にはこう書かれています。

「ぼくの小説『火垂るの墓』は、だから舞台をかりただけで、もし、ぼくのいつわりのない満池谷を書くなら、少年と少女の、それなりにロマンチックな色どり濃いものとなるだろう。しかし、ぼくには書けない。ぼくはせめて、小説『火垂るの墓』にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無惨な骨と皮の死にざまを、くやむ気持が強く、小説中の清太に、その想いを託したのだ。ぼくはあんなにやさしくはなかった」

 京子氏との想い出は同時に恵子氏の記憶を蘇らせました。恵子氏への懺悔の気持ちがあふれ、京子氏との恋を描くことはできなかったのかもしれません。

参考資料:
『アドリブ自叙伝』著:野坂昭如
「ジブリの教科書4『火垂るの墓』」

配信元: マグミクス

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