合戦が多かった戦国時代でも、正月ともなれば様々な儀式があるため、一時休戦して祝うことが多かった。ところが、そんなめでたい時に単騎で敵陣に乗り込もうとして討ち死にした、ある意味、おめでたいと呼ばれても仕方がない武将がいる。永禄3年(1560年)、下野国の戦国大名・佐野昌綱の嫡男として誕生した、佐野宗綱である。
実際の宗綱は優秀な武将だった。大永7年(1527年)に父親が亡くなると、15歳で家督を継いだ。井上主水ら先代から仕える家臣団の協力の下、あの上杉謙信にたびたび攻め入られるが、堅城・唐沢山城と自身の知略をもって、何度も撃退している。
宗綱には先見の明があった。当時の関東ではあまりメジャーな武器でない鉄砲の普及に力を注いだというから、並の武将ではない。
そんな宗綱を織田信長が気に入ったのだろう。天正4年(1576年)には信長の推挙によって、但馬守に叙任されている。
だが信長の死後、宗綱は領国の運営に苦労することになる。北条氏とは再三に及ぶ戦闘を展開し、天正12年(1584年)、北条方であった富岡秀高の小泉城を攻撃して、沼尻の合戦が勃発する。
さらにその後、長尾顕長との戦いに発展。この戦いでは「下野の虎」の異名を取る宗綱の連戦連勝だったというが、これがいけなかったのかもしれない。
翌天正13年(1585年)元日のことだ。長尾顕長と彦間で戦った際に、敵将の挑発に乗った。そして無謀にも、単騎で敵陣へと突撃。よほど自信があったのだろう。あるいは正月ということで多少、酔っていたのか。皮肉なもので、自ら普及に努めていた鉄砲に狙われたのだ。
当時の鉄砲は命中精度が低かったのだろうが、単身では相手は狙うのが簡単だった。弾は命中し、宗綱は落馬したところを討ち取られてしまったという。デキる男は往々にして、己の力を過信するものなのか…。
宗綱の死後、佐野は一時没落したというから、一族にとって元日はおめでたい日ではないかもしれない。
(道嶋慶)

