プロ野球選手にとっての新年は、キャンプイン初日の2月1日だ。その大事な日にアメリカまで行きながら「やらかした」選手がいる。現在はタレントとして活躍する長嶋一茂だ。
話はヤクルト時代の1992年に遡る。当時、ヤクルトの1軍はアリゾナ州のユマで1次キャンプを張っていた。一茂はそのメンバーに選抜されていたが、なんと初日の朝の体操の時間になっても姿を現さず、事情を知らない選手や報道陣は騒然となった。
真相は単なる風邪だったのだが、数日にわたりキャンプには不参加。この出遅れが響き、オープン戦では思ったような成績を残せず、開幕1軍は大ピンチに。ここで一茂がとった行動は、周囲を唖然とさせるものだった。
当時を知るスポーツ紙デスクが明かす。
「なんと球団側に、アメリカへの野球留学を申し出たんですよ。当時、野村克也監督が率いるチームは優勝を目指しており、チーム一丸になる時期なのに、完全なわがまま。ところがなんと、球団は了承。ドジャース傘下の1Aベロビーチ・ドジャースに野球留学することになったものだから『父親からなんらかの圧力がかかったか、それとも忖度があったとしか思えない』と話題になりました。メジャーは無理としても、3Aなら分かりますが、1Aですからね。環境面は過酷だし、何か学ぶところがあるとは思えない野球留学でした」
一茂は開幕直前の4月1日に渡米。9月4日に帰国し、2日後からチームに合流したが、チームが優勝争いをしていたこともあり、この年は最後まで1軍でプレーすることはなかった。
1987年オフのドラフト会議でヤクルトに1位指名されて以降、入団1年目の88試合を最高に、毎年1軍でプレーしており、出場選手登録されないのは初めてのことだった。
ヤクルトは一茂抜きで優勝しただけに、翌シーズン以降も戦力として考えていないことは明白で、この年のオフに巨人との金銭トレードが成立、チームを去ることになった。
「長嶋さんがノムさんに直接電話して、トレードをお願いしたという話です。当時の巨人、ヤクルトの担当記者の間では『ミスターも人の親だったね』という話になりました」(前出・スポーツ紙デスク)
もし、一茂がキャンプ初日に風邪を引かず順調に調整し、オープン戦で結果を残していれば野村ヤクルトの優勝のメンバーとなり、巨人のユニフォームを着ることはなかったかもしれない。正月の過ごし方は、その後の運命を左右する、ということか。
(阿部勝彦)

