
日本社会でよく使われる「空気を読む」「相手の気持ちを察する」といった能力は、私たちの社会的な交流において非常に重要な役割を果たします。
しかし、周囲の状況や他者の意図を読み取ることに困難を覚える人は珍しくなく、特に自閉スペクトラム症(ASD)の人においては、この問題が顕著に見られると言われています。
ASDは社会的な交流の難しさや、限定的かつ強い興味、反復的な動作や話し方などを特徴とする神経発達上の特性です。 専門家たちは長年、「なぜASDを持つ人々の脳は、定型発達の人々とは異なる働きをするのか」という根本的な疑問を抱いてきました。
この謎を解く鍵の一つとして注目されているのが、脳内の神経細胞間で交わされる情報伝達のバランスです。
脳の情報伝達には、神経活動を促す「アクセル」役(興奮性シグナル)と、それを抑える「ブレーキ」役(抑制性シグナル)があり、この二つの精密なバランスが脳の適切な機能に不可欠であるという仮説があります。
今回、米国のイェール大学医学部(Yale School of Medicine:YSM)の研究チームは、この長年の疑問に対し、具体的な分子レベルで違いを特定する画期的な発見をしました。
チームは、ASDを持つ成人の脳内では、興奮性の情報伝達を担う最も一般的な物質であるグルタミン酸の特定の受容体(mGlu5受容体)が、定型発達者と比べて少ないことを発見しました。
主任研究者である児童精神医学・心理学の専門家ジェームズ・マクパートランド博士(James McPartland PhD)は、この発見を「ASDの理解を進める上で、計測可能な臨床的に意味のある重要な違いを脳内に発見した」と表現しており、これまで行動観察に頼ってきたASDの診察においても、客観的な指標や測定値を用いて診断の正確性を高められる可能性に言及しています。
この研究の詳細は、精神医学の学術誌『The American Journal of Psychiatry』2026年1月号に掲載されています。
目次
- ASDの脳内では「興奮」と「抑制」のバランスが崩れている?
- 「空気読めない」「フリーズする」「強いこだわり」の起きる背景
ASDの脳内では「興奮」と「抑制」のバランスが崩れている?
私たちは、社会的な状況を認識したり、集中力を維持したりするために、脳が情報を適切に処理している必要があります。
この情報処理の鍵を握るのが、神経細胞が互いに情報交換する際の「興奮(アクセル)」と「抑制(ブレーキ)」のバランスです。
専門家たちは長年、自閉スペクトラム症(ASD)の根本的な原因が、この興奮と抑制のバランス不均衡にあるのではないかと考えてきました。
そこで注目されていたのがグルタミン酸です。脳の神経細胞に「発火せよ」という信号を送り、神経伝達の最も主要な「アクセル」役を果たすのが、グルタミン酸という神経伝達物質です。ASDが抱える問題の背景には、このグルタミン酸の活動システムに不均衡があるためではないか? という仮説が有力視されていたのです。
ただ、それを裏付ける具体的な分子レベルの証拠は不足していました。
では、この仮説が事実だとすると、このバランスの不均衡はどういうメカニズムで起きているのでしょうか?
イェール大学医学部の研究チームは、この疑問に答えるために、16名のASDの成人と、同数の定型発達の成人を対象に、最先端の画像診断技術を組み合わせた実験を行いました。
彼らが用いたのは、脳の構造を見るMRI(磁気共鳴画像法)と、脳が分子レベルでどのように働いているかを調べるPETスキャン(陽電子放出断層撮影)です。 特にPETスキャンは、グルタミン酸が作用するシステムの「分子地図」を精密に描くのに非常に強力なツールとして機能しました。
そして、この分子地図を詳しく見てみると、決定的な違いが明らかになりました。
ASDの参加者の脳全体において、グルタミン酸を受け取る特定の受容体の数が少ないことが判明したのです。 これは代謝型グルタミン酸受容体5型(mGlu5受容体)と呼ばれるもので、神経細胞が興奮性の信号をキャッチするために非常に重要な役割を果たしています。
ではmGlu5というグルタミン酸受容体が少ないと、具体的にどのような問題が起きると考えられるのでしょうか?
「空気読めない」「フリーズする」「強いこだわり」の起きる背景
今回の研究の主要な報告内容は、自閉スペクトラム症(Autism Spectrum Disorder:ASD)の参加者では、PETでみたときに mGlu5(代謝型グルタミン酸受容体5)の「利用可能性」が、定型発達の参加者より低いことが示された、というものです。
ただこれだけでは、何を意味するのか一般には理解しづらいので、その意味するところについて推測して考えて行きましょう。
ASDの人の脳内をエンジンに例えるなら、グルタミン酸が「燃料(ガソリン)」なら、受容体はエンジンにガソリンを取り込む「噴射口」のようなイメージです。
そのため、この受容体が少ないと燃料(グルタミン酸)は十分にあるのに、それを燃焼室へ送る噴射口(受容体)が少なく、エンジンの回転数をうまくコントロールできない状態になります。
特にmGluR5は、単にスイッチを入れるだけでなく、「信号の強さを微調整する(チューニングする)」という重要な役割も持っています。そのためこれはエンジンの噴射口という単純なイメージ以上に、様々な問題につながる可能性があります。
ここで特にASDの特性と強く関連すると考えられるのが「ノイズ」が除去できなくなるという問題です。
健康な脳では、mGluR5などの働きによって、重要な情報だけを拾い、不要な情報(ノイズ)を抑える機能が働きます。しかし、受容体が少ないとこの「調整機能」が効かず、入ってくる情報の重み付けがしづらくなります。
それにより感覚過敏( 音や光が強烈に感じられる症状)や周囲の雑音と、会話の声の区別がつかなくなるカクテルパーティー効果が働かないなどの問題につながる可能性が考えられるのです。
またmGluR5は、学習した回路をリセットして、情報や学習を切り替えたり調整する機能があると考えられています。
そのため通常の脳では行動した後、その神経回路の興奮はある程度で冷めます(抑制されます)が、mGluR5が少ない脳では一度スイッチが入った神経回路の興奮が収まりにくく、「ループ状態」になる可能性があるのです。
これが、「同じ行動を繰り返す(常同行動)」や「一度気になったことが頭から離れない(こだわり)」というASD特有の症状に直結していると考えられるのです。
空気が読めない理由
「社会的なやりとり」は、脳にとって最も高度な情報処理の一つです。相手の表情、声色、文脈など、膨大な情報を瞬時に処理し、統合する必要があります。
グルタミン酸受容体が少ないと興奮性シグナルの調整ができないため、先程も述べたようにこの膨大な情報の波を「ノイズ」と「シグナル」に分けることができません。その結果、「相手が何を意図しているのか(全体像)」が見えず、「相手の瞬きの回数(細部)」などの意味のない情報が気になってしまうといった、ASD特有の認知特性につながります。
これがASDの特徴の一つとしてよく挙げられる空気が読めない、などの困難に繋がっている可能性が考えられます。
診断方法がもっと明確になるかもしれない
現在、ASDの診断は主に、児童の行動観察に頼って行われています。 しかし、今回の研究でその「脳内の分子の土台(分子基盤)」が明らかになり始めたことで、将来的にはより客観的な診断ツールへとつながるかもしれません。
マクパートランド博士も「(これまでは)部屋に入って子どもと遊んでASDを診断していたが、自閉症の脳で異なる測定可能なものを見つけることができた」と述べています。
また、この分子レベルの理解は、新たな治療法への道も開きます。
ASDを持つ人の中には、その特性が生活の質(QOL)に影響を与える症状として現れ、助けを必要とする場合があります。現在、ASDの中心的な特性そのものを直接ねらって改善する薬は確立していませんが、今回の発見に基づき、mGlu5受容体を標的とした新しい治療薬の開発が期待されています。
ただし、この研究にはまだ解明すべき重要な課題が残されています。
今回の研究対象は、平均または平均以上の認知能力を持つ成人でした。 したがって、受容体の少なさが、ASDを「引き起こした根本的な原因」なのか、それともASDとして何十年も生きてきた「結果」として生じた神経学的な変化なのかは、現時点では明確ではありません。
研究チームは、この疑問に答えるため、今後は小児や青年を対象とした研究計画を進めています。
さらに、研究チームは、知的障害を持つ人々もPETスキャン研究に含めるための技術開発も進めています。 ASDは非常に多様な特性を持つため、より幅広い人々を対象にすることで、その複雑な実態を分子レベルでより深く理解できるようになるかもしれません。
参考文献
Researchers Discover Molecular Difference in Autistic Brains
https://medicine.yale.edu/news-article/molecular-difference-in-autistic-brains/
元論文
Imaging Metabotropic Glutamate Receptor 5 and Excitatory Neural Activity in Autism
https://doi.org/10.1176/appi.ajp.20241084
ライター
相川 葵: 工学出身のライター。歴史やSF作品と絡めた科学の話が好き。イメージしやすい科学の解説をしていくことを目指す。
編集者
ナゾロジー 編集部

