1月4日よりスタートした大河ドラマ『豊臣兄弟!』。豊臣秀吉(演・池松壮亮)の弟・豊臣秀長を仲野太賀がどう演じるのかに注目が集まっている。秀吉に比べ、圧倒的に知名度が低い秀長の活躍とはどんなものだったのか。人気東大教授の本郷和人氏が解説する。
書籍『豊臣の兄弟 秀吉にとって秀長とは何か』(河出新書)より一部を抜粋・再構成し、秀吉が戦でどのような功績を残したのか、その歴史を追う。
まだあった「領有」の曖昧さ
秀長は有子山城主となり、但馬国を領有したとされるわけですが、ところが同時代の史料を見ると但馬国でも美含郡、城崎郡と二方郡は宮部継潤(?~1599年)が支配している。宮部継潤は羽柴秀吉の古参の家来で、秀吉の甥、秀次が一時期、宮部継潤の養子になっていたという間柄です。
また出石郡については木下昌利が支配していたことが確認されています。もっとも、この木下昌利は、もしかすると秀長の家来の可能性もあるので、それであれば秀長領ととらえてもいいのかもしれないのですが。となると、但馬国七郡のうち二つ、あるいは三つの郡は他の人が支配していて、確実に秀長領といえるのは、残りの養父・朝来・七美・気多の四郡しかないということになります。
ややこしいですが、この時期は「一国を与えた」といっても、まだまだ排他的にまるごと統治していたとは限らず「概ねこの国はあなたのもの」といった感覚だったのだと思われます。「一国領有というときは、まるごとその国がその人の領地。独立した勢力はいない」というかたちで明確な統治が行われるようになるのは、秀吉の日本統一を経て、さらに江戸時代になってからのことになるのでしょう。
ちなみに秀長の本拠地は竹田城と有子山城(出石城)とされるわけですが、竹田城は朝来郡。有子山城は木下昌利領の出石郡。そうすると確実に本拠といえるのは朝来郡の竹田城となります。この辺りについては、現代の自治体が観光客を期待して、「秀長の城はうちのほうです」と争うことになりそうですね。
本能寺から天下人へ。秀長の大功績
「本能寺の変」の前年、1581年になると、山陰地方に羽柴の勢力が伸びていきました。そして鳥取城に対して再び包囲を行うわけですが、この包囲戦にも秀長は当然参加しています。
翌年四月、いよいよ秀吉軍は備中高松城を攻めて、有名な「水攻め」を行う。城の周りに堤を築き、水を溜めて城を孤立させる作戦です。こちらでも秀長は陣を張って参戦。敵兵の攻撃に備えました。
そしてこの水攻めの最中についに「本能寺の変」が起こる。秀吉は高松城主、清水宗治の切腹と引き換えに城兵の命を助けるという条件で毛利と講和。そして「中国大返し」を行いました。秀長は兄に従って京都に戻り、まさに天王山となった「山崎の戦い」に参加します。しかしこのときも、積極的に武功をあげたわけではありませんでした。
その後の「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」では、秀長は木之本に置かれた秀吉軍の本陣を守備して、手堅く武功を重ねます。戦いののちには任官して、但馬と播磨の二か国を拝領することになりました。
1598(慶長3)年の段階であれば但馬が11万石ほど、播磨が20万石余で、約35万石の大大名クラスに出世したことになります。秀長は竹田城を出て、もともと秀吉が本拠地としていた姫路城を居城にしました。
「小牧・長久手の戦い」では、秀長は非常に象徴的な役目を担っています。このとき秀吉は主力を率いて犬山城に入り、徳川家康と対峙したわけですね。秀吉の別働隊は壊滅させられましたが、主力同士の会戦は起こらず、勝負がつかないでいた。
そうした状況で、秀吉は伊勢に軍勢を送り、家康と同盟を結んでいた織田信雄を攻めます。秀長は、この伊勢侵攻を担当して、見事に信雄を降伏させました。信雄が単独で降伏してしまった結果、家康はいわばはしごを外されたかたちになり、振り上げたこぶしのやり場をなくしてしまった。それで兵を引くことになるのですが、伊勢に侵攻した秀長の働きが、最終的に家康の臣従につながったと言えるわけで、この功績は非常に大きなものでした。

