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官渡で大敗→即滅亡は誤解 「三国志」袁紹亡き後の袁家 「曹魏」乗っ取り説も…!?

官渡で大敗→即滅亡は誤解 「三国志」袁紹亡き後の袁家 「曹魏」乗っ取り説も…!?


袁紹が率いた「袁家」の末路は、TVドラマでいうところの「ナレ死」だった。コミックス20巻冒頭のことである 『横山光輝三国志』20巻(潮出版)

【画像】実は歴史のキーパーソン? こちらゲームに描かれた絶世の美女「甄氏」です

数行で滅んだ「北方の雄」

 袁紹といえば、横山光輝『三国志』でも序盤に登場しながら気付けば退場していた……そんな印象を持つ人は多いかもしれません。しかし袁家は漢王朝のエリート一族、いつのまにか消えてなくなるような勢力ではありませんでした。

 横山『三国志』が大胆に省略した展開は何だったのか、そして滅んだはずの袁家の血が次の王朝に入り込んだ可能性――あったかもしれない「後日譚」を見ていきましょう。

そして時は流れた

 横山『三国志』では、孫権が19歳で跡を継いだ直後、物語は突如としてワープします。「そして時は流れた」から始まるモノローグにて、曹操が「官渡の戦い」で袁紹を破り、滅ぼした事実が語られるのです。100万もの大軍が激突したはずの「官渡の戦い」はまるごと省略されています。

 これは漢王朝の旧勢力である袁紹との戦いを描くよりも、劉備、曹操、そして孫権ら「次代の主役たち」の物語へテンポよく移るためでしょう。

またしても骨肉の争い

 官渡の戦いで敗れたのちも、袁紹はそのまま滅んだりせず、勢力を立て直し影響力は健在でした。ところが建安7年(西暦202年)、袁紹は後継者を明確にしないまま病没します。ここから河北は、長男 袁譚(えんたん)と末子 袁尚(えんしょう)の後継争いに突入しました。窮地に陥った袁譚は、生き残るために一時的に曹操と手を結び、実の弟を討つという道を選びます。しかし、袁尚を追い払うと今度は曹操の手によって滅ぼされる羽目に。

 一方で袁尚と袁煕(えんき。袁紹の次男)は北方へ逃亡、最後に遼東の公孫康を頼りますが、公孫康によって斬られたと伝わります。こうして漢王朝のエリート一族は表舞台から消えました。

 しかし袁家の物語はまだ終わりません。

次の王朝にも袁家の血が!?

 注目すべき人物は袁煕の妻だった美女、甄(しん)氏(甄洛〈しんらく〉)です。『三国志』魏書・后妃伝によれば、曹操軍が袁家の本拠地であるギョウ(※)を攻略した際、その美貌に目をつけた曹丕(そうひ)が彼女を妻にしたとのこと。そして甄氏が産んだのが、魏の二代皇帝 曹叡(そうえい。明帝)です。

 ここで古くから囁かれてきた異説があります。それは「曹叡の実父は曹丕ではなく、袁煕ではないか?」というもの。

 その根拠として挙げられるのは曹叡の没年齢です。『三国志』魏書 明帝紀に記された曹叡の没年は景初3年、つまり西暦239年です。そして享年は36歳でした。中国や日本の記録は数え年なので、生まれた瞬間に1歳とカウントします。この記述が正しいとすれば曹叡の誕生年は西暦204年(建安9年)になります。ところが曹丕が甄氏を手に入れたのは西暦204年の8月以降です。

 つまり曹丕が甄氏を手に入れてからすぐに曹叡が生まれたことになります。ここに曹叡の実父は袁煕ではないか、という異説が生まれる余地があるのです。

 また正史の注釈に引用された『魏末伝』や『魏氏春秋』といった当時の記録には、曹丕と甄氏、曹叡の関係を示す逸話が数多く残されています。曹丕は曹叡が20歳になっても太子にしませんでしたし、甄氏は恨み言を口にしたことで処刑されています。しかも残酷な方法(被髪覆面・以糠塞口)で埋葬されました。これには曹叡が実子でなかった恨みがこもっているように感じられます。

異説はロマン

 古代の資料には数字の誤りや年齢の数え方の揺れがあります。そのため年齢計算から曹丕と曹叡の親子関係を疑うのは異説の域を出ません。しかし滅んだ名門が次の王朝では皇族になっていたとしたらどうでしょう。袁家の最期からは歴史の皮肉とロマンが感じられます。

※「ギョウ」は、正しくは「業におおざと」。現在の河北省邯鄲市に位置する

配信元: マグミクス

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