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“記憶”に基づく映画『ウォーフェア 戦地最前線』は観客に戦争そのものを体験させる

“記憶”に基づく映画『ウォーフェア 戦地最前線』は観客に戦争そのものを体験させる

一本線の時間に観客を閉じ込める

映画は、エリック·プライズの「Call on Me」に合わせたエアロビ動画から始まる。兵士たちは異様なほどハイテンションで、無邪気に、ほとんど馬鹿騒ぎのように身体を動かしている。あまりに軽薄で、あまりに不釣り合いな導入。だが重要なのは、この場面が観客を油断させるための演出ではなく、実際に彼らが戦地で行っていた行為の再現であることだ。ここには、物語的な仕込みがない。

作戦が始まり銃撃戦が起こると、状況は一変していく。荷物を取り忘れる。負傷兵を運ぶ際に靴が引っかかる。モルヒネの注射を上下逆に持ち、自分の指に打ってしまう。小さなミスの集積によって、時間だけが引き延ばされ、事態は取り返しのつかない場所へ滑り落ちていく。ここで描かれるのは、英雄譚でも失敗談でもなく、まるでVlogのような生々しい時間の記録である。

そういった感覚を音声設計が決定的に補強する。爆発の直後、音が消える。世界がくぐもる。無線の交信が重なり、情報は意味を失ったノイズへと変わる。そして、負傷兵の叫び声だけが異様なほど長く、執拗に残り続ける。人間は、映画が教えてきたようには簡単に死なない。痛みは一瞬で終わらず、時間として居座り続ける。その事実が、観客の身体感覚に直接突き刺さっていく‥‥。

この題材は本来、複数の証言を並べる「羅生門」的な多視点構造にもなり得ただろう。だが彼らは、その道を選ばなかった。もし視点が分岐すれば、観客は「どれが正しいのか」「誰を信じるべきか」という知的なゲームを始めてしまう。それは、戦争体験を理解可能なパズルへと変換してしまう行為にほかならない。

『ウォーフェア 戦地最前線』が選んだのは、「真実を比較する構造」ではなく、一本線の時間に観客を閉じ込めること。「何が正しいか」を問う前に、戦争そのものを体験させる。しかも、この映画には文脈すらも存在しない。「文脈はしばしば、でっちあげです。感情移入のための恋人の話、家庭の話。それを削ぎ落とすことで、純度が生まれました」とアレックス·ガーランドは語る。理解よりも先に、身体が反応してしまう。それこそが、本作の核心なのだ。

ドゥニ·ヴィルヌーヴが『ボーダーライン』(2015)や『『DUNE/デューン 砂の惑星』(2021)で、暴力や運命を圧倒的な崇高美へと昇華させ、観客をその美学の中に沈潜させるのだとしたら、ガーランドはその逆を行く。彼は映画が持つ“美しく整える力”を拒絶し、観客を泥臭い、整理のつかない戦場へと送り出した。『ウォーフェア 戦地最前線』という映画に刻まれているのは、答えに至る前の、戻れない時間そのものなのである。

文 / 竹島ルイ

作品情報 映画『ウォーフェア 戦地最前線』

2006年、イラク。監督を務めたメンドーサが所属していたアメリカ特殊部隊の小隊8名は、危険地帯ラマディで、アルカイダ幹部の監視と狙撃の任務についていた。ところが事態を察知した敵兵から先制攻撃を受け、突如全面衝突が始まる。反乱勢力に完全包囲され、負傷者が続出。救助を要請するが、さらなる攻撃を受け現場は地獄と化す。混乱の中、本部との通信を閉ざした通信兵・メンドーサ、指揮官のエリックは部隊への指示を完全に放棄し、皆から信頼される狙撃手のエリオットは爆撃により意識を失ってしまう。痛みに耐えきれず叫び声を上げる者、鎮痛剤のモルヒネを打ち間違える者、持ち場を守らずパニックに陥る者。彼らは、逃げ場のないウォーフェア(戦闘)から、いかにして脱出するのか。

脚本・監督:アレックス・ガーランド、レイ・メンドーサ

出演:ディファラオ・ウン=ア=タイ、ウィル・ポールター、ジョセフ・クイン、コズモ・ジャーヴィス、チャールズ・メルトン

配給:ハピネットファントム・スタジオ

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2026年1月16日(金) TOHOシネマズ 日比谷ほか全国公開

配信元: otocoto

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