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F1が抱える『ドライビング・スタンダード』問題。ホワイティング時代を見習えば解決するのか?

F1が抱える『ドライビング・スタンダード』問題。ホワイティング時代を見習えば解決するのか?

F1の「ドライビング・スタンダード・ガイドライン」の解釈と実施に関する不満は、年々激しいモノとなってきている。そして2019年に亡くなったチャーリー・ホワイティングがF1レースディレクターを務めていた頃の、裁定を何の疑問も持たずに受け入れていた平穏な時代への憧れが広がっている。

 昨シーズンの最終戦前、追い越し時または追い越される際に競技者が”スペース”をいつ確保できるのかを定めたガイドラインに対する批判の高まりを受け、ドライバーとFIAの間で会議が開催された。要約すると、両者は2025年シーズンの5つの主要なインシデントを検証しながら「率直でオープン、かつ協調的な」対話を行なったが、ガイドラインを直ちに変更することはないという内容だった。

 それ以外にも、ドライバーたちが長らく要求してきた常任スチュワードについても、費用を誰が負担すべきかという点などについて意見が一致しなかった。

 ドライバーと統括団体であるFIAとの間の大きな亀裂は、根本的なモノだ。ドライバーたちはガイドラインが複雑すぎて悪用される危険性があり、明確化をすることでガイドラインの有用性は増すどころか損なわれると考えているのだ。

 アレクサンダー・アルボン(ウイリアムズ)はカタールでのその会議の前夜に「まるで、ドライビング中にコーナーに差し掛かると、こうしなくちゃいけないというルールブックがあるようなものだ。それは僕が考えるレースとは程遠い」と語った。

「まるであるルールのシナリオがあって、その抜け穴を説明する別のルールがあるようなものだ。そしてルールには階層があり、それが複雑化している」

「ドライバーとして、僕たちはカート、F4、F3、F2で育ってきた。何が限界なのか、何がクリーンな運転で何がダーティーな運転なのかを知っている。僕は自分なりのクリーンな運転とそうでない運転の基準を守っている。それは僕にとって理に適っているんだ」

「ルールがもっと少なかった頃は、流れがもっと良くて、疑問点も少なかったと思う。間違っていたら教えてほしい。でも、チャーリー(ホワイティング)が自分の解釈で事件を語り、皆が『OK』と言って先に進んでいたような感じだったと思う」

 チャーリー・ホワイティング時代について言及したアルボンのコメントは興味深い。それはアルボンのF1デビューよりも前の話だからというだけではない。ホワイティングは、アルボンのデビュー戦である2019年オーストラリアGP直前に亡くなっている。

 ホワイティングは率直に言って、彼の後継者たちが成し遂げられなかったような形で、競技者たちから高い尊敬を集めていた。これは主に、モータースポーツ界における彼の地位と経験、そして1990年代以降の好景気期にF1をほぼ完全に掌握していたバーニー・エクレストンとマックス・モズレーの体制における彼の立場によるものだ。

 1980年代初頭、ルールを「曲げる」ことが横行していた時代に、バーニー・エクレストンの所有するブラバムでネルソン・ピケのチーフメカニックを務めた彼は、密猟者から猟場の番人へと転身した典型的な人物だった。エクレストンが1988年にブラバムをスイス人投資家のジョアキム・ルティに売却した際、バーニーはホワイティングにFIAでの仕事を見つけ、後に訪れていたであろう破滅から救った。

 その後数年間、ホワイティングの職務はテクニカルデレゲートからレース全体の指揮へと拡大し、スタート手順の実務、安全管理、そして新コースの承認など、多岐にわたる業務を担うようになった。これはホワイティングが、メカニックとしての経験からドライバーの言い訳や言い逃れの能力を百科事典のように熟知し、レースにも深い理解を持っていたことが大きかった。

 それに加えて、彼はモーターレース界の実力者たちから支持を受けていた。FIA会長就任後数ヵ月間、モズレーが任命したメンバーを解任し、自らのチームを優先することを選んだジャン・トッドでさえ、ホワイティングをチームに留めた。

 ホワイティングは大抵の場合、露出を避け、自分の意見を口に出さず、インタビューにもほとんど応じなかった。それが彼とドライバーたちの間の尊敬の絆を深めた。

 しかし、現在のモータースポーツ界で、これほどの地位を享受している人はいるだろうか? カルロス・サインツJr.(ウイリアムズ)が最近の出来事を冷静に分析した功績を(皮肉交じりに)称賛した元F1ドライバーの解説者たち、カルン・チャンドック、アンソニー・デビッドソン、ジョリオン・パーマーらに対して最大限の敬意を払ったとしても、おそらくそんな人物はいないだろう。

 たとえそんな人物が突如として現れたとしても、その人物は常に正しいと言えるだろうか? 客が増え、意見が二極化し、結果に巨額の金銭が絡む現代において、そんな状況は考えにくい。

 バラ色の視点を捨て、過去をあまりロマンチックに捉えずに検証するのも賢明だろう。ホワイティングはその統治の最後の10年間、特に2016年には、レースコントロールやスチュワードの判定に一貫性がないとみなされ緊張が高まった際に、しばしば非難を浴びた。メキシコGP中にセバスチャン・ベッテルが激怒し、エンジニアに「チャーリーに(Fワード)と言え」と指示するほどだった。

 あの頃のほうが良かったとよく言われるが、それは本当なのだろうか?

 当時も今も、レースコントロールやスチュワードからの裁定は必然的に主観的なモノであり、その正確さは関係者の経験に左右されていた。現在のドライビング・スタンダード・ガイドラインの文書は、起こり得る事態を明文化し、透明性を確保しようと努めている。

 F1は今やかつてないほどにビジネス化しており、チームの評価額は数十億ドルに近づいている。商業権保有者もまた、株主をなだめ、コンプライアンスを守らなければならない数十億ドル規模の企業だ。F1が不透明なビジネスを展開してきた時代は終わった。それは、リバティ・メディアが権利取得後、エクレストンを可能な限り速やかに追い出したことからも明らかだ。

 同様に、レースの結果を左右する判断は目に見えない、説明責任のない人物によって下されるべきものではない。ドライビングスタンダードに関する文書が「これらはガイドラインであり、規則ではない」と強調しているように、「多くの事故は主観的な判断を必要とする」こと、そして「レースは動的なプロセスである」ことを認めている。

 まるます扱いにくくなっているとはいえ、ガイダンスの役割は、バトルにおける規則を可能な限り透明に定めることだ。問題は、すべての人に当てはまる万能のフレーズを作成することは不可能だということだ。

 ホイティングがよく知っていたように、ドライバーは子供のようなもので、どんなルールでもその限界を試すものだ。したがってコーナーのエイペックスで各ドライバーのフロントアクスルがどこにあるのかというガイラインの文言は、その後の改訂で微妙なニュアンスを伴わざるを得なかった。

 だがそれでもグレーゾーンは残っている。特にドライバーがマシンを制御できているのかどうかという、他の重要な要素を判断する際にはそれが顕著だ。

 2025年のサンパウロGPでオスカー・ピアストリ(マクラーレン)がペナルティを受けた。ターン1エイペックスでの路面のキャンバー変化が、コントロール喪失とアンドレア・キミ・アントネッリとの接触事故の一因となったが、この判断に他のドライバーからピアストリを擁護する声が上がった。しかしF1は民主主義ではない。

 ドライバーとFIAの間で行なわれたガイドラインに関する議論では、主眼の一つが「スチュワードがロックアップの動的要因を考慮に入れる必要性」であったと理解されている。例えば、前走車の動きによって引き起こされた事故を回避しようとしてドライバーがロックアップした場合、その責任を問われるべきなのか?

 しかしこれは当然ながら、ガイドラインのニュアンスを増やすだけで減らすことにはならず、「ドライバーにレースをさせる」という原則からのさらなる逸脱を意味する。

 ドライバーたちが合理化された客観的な意思決定を求めるなら、それは「クリーン」と「ダーティ」の定義を共有するだけで実現する可能性は低い。これらの用語は本質的に主観的だからだ。歴史に解決策を求めることも同様に無意味である。

 最近のF1レースの経験を持つプロの常任スチュワードを置くことで、ガイドラインの解釈に信頼性を与えることはできるかもしれない。しかし、それこそがチャーリー・ホワイティング時代へのノスタルジーの本質を突くものである。

 これはルールやガイドラインの問題というより、尊重の問題であり、そしてそれらを執行する者への信頼の問題なのかもしれない。

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