「だめなんだ。生きられない。がんばってみたんだけれど、どうにもうまくいかなかったんだ……」 ――乙一『しあわせは子猫のかたち』
ライター:海燕
オタク/サブカルチャー/エンターテインメントに関する記事を多数執筆。この頃は次々出て来るあらたな傑作に腰まで浸かって溺死寸前(幸せ)。最近の仕事は『このマンガがすごい!2025』における特集記事、マルハン東日本のWebサイト「ヲトナ基地」における連載など。
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コミュ障キャラの長い系譜
コミュ障――コミュニケーション障害。上手く人と対話し、場を盛り上げることなどが苦手な性格の人を指す俗語で、現代のアニメやマンガではしばしばひとつの典型的な「キャラ」を示す言葉として使用される。
そういったキャラクターたちのなかでも、最も印象的なのは『ぼっち・ざ・ろっく!』(以下『ぼざろ』)の主人公、後藤ひとりだろう。
彼女はギタリストとしてきわめて優秀な技量を誇りながらも、一面で重度の「コミュ障」で、人と話すこと、人前に出ることが極端に不得意だ。
『ぼざろ』はそんなひとりをコミカルに描きながら、そのゆっくりとした成長を丹念に追い、泣き笑いの内容で大人気を博した。
文句なしに令和の傑作といって良いと思うが、それにしてもこの『ぼざろ』を観ていると、ひとつ大きな疑問が湧いてくる。そもそも、彼女はいったい何をそれほど怖がっているのだろう。
その答えは一見するとたやすい。つまり、「コミュニケーションの失敗」を怖れているわけだ。しかし、それではなぜ、彼女はそこまでその種の失敗を怖れるのか。
たしかに、ひとりは不器用な性格だし、上手く話すことができるタイプではない。しかし、コミュニケーションとは、本来、対話する双方が責任を負っているはずである。彼女だけが一方的に自分の不器用さを気にしなければならない理由はない。
もちろん、それはただの理屈ではある。本来、自分が背負い切れるはずもない、背負う義務を負っているわけでもない荷物を、むりに背負い、その重荷に耐えられなくなるような性格であるからこそ、「障害」とまで呼ばれるのだろう。
それはそうなのだ。そうなのだが、それでも、「ぼっちちゃん」ことひとりを見ていると、その、生まれたての赤子のように世界を怖れる様子にある種の痛ましさを禁じ得ない。
ほんとうにこの世界はそれほど残酷なだけの場所なのだろうか。いうまでもなく、そうではない。世界にはひとを傷つけ、苛む悪意とともに豊饒な善意があり、だれかを踏みにじって満たされる独善といっしょに温かな優しさがある。その、はずだ。
じっさい、ひとりを囲む面々は、ときにあまりに傷つきやすすぎる彼女にとまどいながらも、後輩として、仲間として、ライバルとして、ひとりを優しく守ろうとする。
だが、まさにそうであるからこそ、ひとりの一向に改善しない「対人恐怖キャラ」は痛々しい。そう、ここで問題なのは、彼女の「コミュ障」ぶりというより、なぜ、その「コミュ障」をこうも悩まなければならないのかということである。
彼女はじっさい才能があるし、能力も高い。べつだん、性格が明るくなくても、人と話すのが苦手でも、良いではないか。いつからこのように「コミュ障」や「陰キャ」は過度に疎んじられるようになったのだろう。

